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「勉強」なんて、出来なくてもいいじゃない

 「勉強をしろ」とはよく言われたものである。ふざけた話である。「勉強」なんて必要になればすればいい。無理やりやっても、覚えることもできないし、ただ暗記するだけで使えはしないのだから。今、自分にとって必要なこと、楽しいことを極める。これが「勉強」でしょう。そうすれば、自ずと必要なことを覚えるために調べ、考えるのだから。
 例えば、覚えることが好きなら、「どうやったら効率よく覚えられるのか」「覚えるとは、結局なんなのか」とかを極めると思う。
 だから、学校で授業についていけないことは、悪くないと私は思う。できることは偶然に過ぎない。出来ないのは、まだその時じゃないだけ。だから、親はついていけない子を見て怒ったりするのはやめてほしい。無理やりに何かをさせず、必要な時に、必要な環境を与えてほしい。勉強ができない子を、馬鹿にするのはやめてほしい。
 別にできなくてもいいじゃないか。そもそも「できる」なんて、誰も測ることなんてできるわけがない。できたところで、働き始めたら仕事が増えるだけだと私は思う。
 勉強なんてそもそも誰も「できる」わけがない。しょせんは人間の戯言。「勉強」とは「できること」が目的ではない。「できないこと」を知ることが目的である。「できない」から「どうするのか」を考えるのである。「できない」からこそ、「できるところだけやる」とか、「できないところをできるように練習する」とか、考える訓練をするのである。「勉強ができます」は本末転倒であろう。勉強することそれ自体が目的ではない。勉強とは自己を知る手段である。「勉強が大切」という連中のほとんどは、勉強の目的を履き違えている。
 「勉めを強いる」とは、自己の足りないところを知ることを「強いられる」のである。嫌だなと思いながらも、それを知るのである。勤勉に自己の足りないところを強いることを励むからこそ「勉強」なのである。よって、「私は○○を知っています」という者は勉強を知らない者で、「私は馬鹿です」という者ほどよく勉強している者であると私は考えている。「何も知らないことを知る」ということほど、尊いものはないだろう。「わからない」「知らない」ことを耐えることのできる人間なんて少ないのだから。

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