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「おかしい」というソフィストの亡霊

「おかしい」とは一体何なのか。「常識」なんてあるとは思ってないので、自己の都合のよいことをいうための、レトリックだと思っています。
 「おかしい」というのは、普遍性を有しないため、常に自己の内にある基準を顧み、自己の生がよいものであるようにしているかを、考えるのが関の山だと思うのですが、そうでない人も多い。そこで、「文化」に着目して、それを示してみましょう。

・キリスト教と日本
 オーソドックスな話として、キリスト教と日本の文化の関係があげられます。マニアックは話をしますが、意外と身近なところに違いがあります。
 おそらく、民法上の子供の扱いとかがそうでしょう。ドイツと日本では似て非なる感じがする。
 この違いについては、要するに次のような違いがあります。キリスト教上では、神の前に個人が等しいという観念が、実は近代以降改めて認識されます。いわゆる「個人主義」として現れるわけです。ですので、子供も出生以来、一人の個人として(判断能力が未熟な一面があるとしても)見なされるわけです。そのため、子供の権利についても注意深く議論がされる。
 一方で、日本においては多神教的ですので、自然の内に皆等しいという具合であり、絶対的な存在を想定できない。自然という絶対的のようで、すべて包摂してしまうような、母神的なものを感じ、西洋とは異なる観念を抱く。そのため、国家と対になるものが存在しない。西洋では、国家と教皇が同じ位にある時代もありましたが、それとは対照的です。天皇がいましたが、おそらく鎌倉時代以降、いってしまえば「政治の道具」になりました。時の政権が自らの正統性を論じる「お墨付き」を与える存在になった。つまり、国家の対になる存在とならなかった(イギリスとは少し異なる形というわけです)。
 それは結果として、子供という存在を家族から引きはがす存在、つまり神のような概念が生まれなかったということです。西洋であれば、子供は家族とは別に神の前では独立した個人であるのに対し、日本では家族以外に子供を独立した存在とみなす存在が不在であったわけです。
 この時点で、ドイツからすれば日本は「おかしく」、日本からすればドイツが「おかしい」といえてしまうのではないでしょうか。
 どちらが「よい」のか。それは「どのように決めるのか」ということです。結局のところ、何を求めたいのか。その目的を明らかにし、ドイツ的であるほうがよいのか、日本的であるほうがよいのか、それとも折衷的なものがよいのか。
 常識の破壊は、新たな常識の創造です。「おかしさ」の破壊は、新たな「おかしさ」の創造でもあります。「おかしい」と呼ばれたものを「おかしくない」とすれば、それまで「おかしい」と言っていた人達が「おかしい」ことになります。
 故に、「おかしい」というのであれば、その根拠、つまり「おかしい」というその目的を明示し、それに適した手段を「おかしい」と述べる側は提示する必要があるのでは、と思う次第です。そうでなければ、「おかしい」といい、自分の意見を述べたいただの我儘に近い気がします。

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