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新芽たちの影で

なんとまあ、いわゆる障害のオープン就活だろうが、クローズド就活だろうが、どうも採ってもらえない。いわゆる内定がでないのである。
 よく「学部生の頃、就活していましたか?」と聞かれる。要するに、学部生の頃に就活が上手くいかなかったから、院に進んだと思っているらしい。ふざけた話である。学部の頃は就活どころではない。単純な話で、就活できるような精神状態ではない。院に進めたのも、半分「掛け」であったのである。どうにか自分の頭で絞りだせるのが「法学」であり、憲法であっただけである。まぁ、ある意味「上手くいかなかった」とはいえるかもしれないが。
 話が上手いのも確かにその通りかもしれないし、大人びて見えるのも確かにそうかもしれない。しかし、それがどうしていけないのか。活発で何でもいうことを聞いてくれる学生が欲しいのだろうか。ひねくれているように見えるのか。私のことをそんなに推し量ることができないのか。
 私の世界に対する認識が誤っているのだろうか。先人たちの狂わしいまでの知恵が生み出した社会制度、そしてその改革に伴う変遷。その流れの中で生を全うすることに価値を見出す人間は狂人に見えるのか。確かに、狂人かもしれない。法律を学んでいると、これを人間が作り出したとは思えないほど、精緻で、網羅的であると感じる。あらゆる人間の悪意、善意、過失に対応するように組まれたその法典に、人の叡智を感じ取れるのは狂気の沙汰なのかもしれない。
 何が「イノベーション」か。人工知能に負けない人間が欲しいのだろう。狂気を人工知能は真似することはできやしない。つまり、狂気のある人間こそ、人工知能のその先を行けるのではないかと思うのは、ただの傲慢か。
 雲の切れ目より射し込む光が山を照らし、彩雲は雲を照らし、人の意志は何を照らすのだろうか。
 人のもつ想像力などたかが知れているのかもしれない。
 美なる世界はまさに崇高さ、尊さ、そして破壊衝動の果てをもたらす。推し量ることのできない人間の心理に対し向かい合ったモーリアックの如きフランス心理主義者のようであるが、実に人間の何たるかを象徴している。自然の裡に取り込まれ、自然と合一し、充溢せし精神こそ、人間ではないのか。金銭は自然の一部に過ぎず、十全の存在足ることできはしない。巨人の肩にのり道筋を示し歩くは人の影、その足跡に私の足がちょうどあっていたのである。彼らのその先にまで足跡を残し、私もまた彼らに続かんとし、その背中をもって貫徹し、後世の礎足らんとするが是を天道とし、まさにこれが人の生というものかもしれない。
 天道は自然の摂理で、人の心をもってはいないと道教では述べる。確かに、一理ある。西洋でも道徳律はおそらく人の心をもっていない。しかし、両者ともに人の生の目的と合致することが、目的それ自体となり、主体と客体の間があやふやとなり、合一するのである。
 主体からして客体となる人間又は道徳律は、その存在が対立するからこそ、対立を超越しその区別をなくすことが可能となる。最初から人間と道徳律が同一であればそもそも「道徳律」という言葉も生まれはしなかったかもしれない。自分、他人、道徳律という三者の関係こそが、自己と他人を結ぶメルクマールとなりえる道徳律を生むのだろう。
 我が生において採用担当者のよくわからん基準に付き合う必要もないということである。合わせる必要などない。向こうが合わせればよろしい。私はその遙か先を見、ただ天の道の下に邁進するほかない。

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