何というか、そもそも「あたりまえ」とは何か、それを理解してない人らが、どうやら会議をやっているらしく、私はそのとばっちりを現在受けている。
自分の経験が「あたりまえ」と考えているらしく、他の人の意見は「私よりもアホなやつが何か言っている」程度にしか思っていないように見える。会議というのは、自己の意見を発表する場ではなく、今後どうしていくのか、その落としどころを見つけるであろう場所であるのに、どうしてそう思わないのか。
馬鹿馬鹿しくてやってられない。少なくとも「あたりまえ」とは、「みんなが思っていること」とかであろうに、それすらない。「あたりまえ」=「自分の考え」とかいう、「それ以前」のことである。「みんなが思っていること」って何だろうと考え、結局、そんなものはないから、話し合うしかない、というところに落ち着けば御の字。「みんな違って、みんなわからん」のが、唯一の「あたりまえ」であろう。
いい大人が、それをやっている。失われた30年の原因が表れているに違いないと私は思う。技術は進化しても、人間は退化しているのではないか。そう思ってしまう。
「みんな違って、みんなダメ」ぐらいでいいのである。何かができる必要なんてない。何もできなくていい。足るを知る。これだけで立派である。十分である。適当に、畑を耕し、川で釣りをして、さっさと寝る。それでよいではないか。他人より優れて何になろうか。仕事が増えるだけである。信念・信条の押し付けほど面倒なことはない。価値などは「わからない」から「善い」のである。「なんとなくよいかも」でよくて、深く考えるとは、「なんとなく」を気づくためにあるのではないか。「答えを具体的に見出す」ことではあるまい。深く考え、わからない良さに気づく、これほどよいことはない。
実は、「権利」も同じである。「権利についてわからない」から、「よい」のだと私は思う。「これが権利です」なんてわかったら、権利以外のものが蔑ろにされてしまう。基準が生まれるとは、基準に満たない存在を否定していまいかねない危険性を有する。基準自体に価値を見出すのは、不味いだろう。
考えるとは、不確実性、曖昧性への耐性を身に着けることでもあるのではないか。そんなことを思う日々。
「あたりまえ」以前
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「「これが権利です」なんてわかったら、権利以外のものが蔑ろにされてしまう。基準が生まれるとは、基準に満たない存在を否定していまいかねない危険性を有する。基準自体に価値を見出すのは、不味いだろう。」
この部分を読んで、確かに「権利」とされるもの以外が蔑ろにされたら本末転倒だなと感じました。
気づきをありがとうございます。
「わからない」からこそ「AはいいけどBはダメ、なぜなら基準でそうだから」という線引きによる切り捨てを防げるかもしれないのかな、と勝手ながら俺は思いました。
(注:投稿者はn-salonとなっていますがコメントは研究員からのものです。コメントは研究員限定で受け付けています)