学歴社会と受験。
日本では学歴が全てではないと言われることもあるが、自分は未だに学歴社会なのではないかと感じている。
確かに海外に目を向けてみればこれより熾烈な学歴争いをしているところがあるのもまた事実だ。韓国などがそう言えるだろう。
自分の話となるが、自分は何故勉強するのか分からずに勉強している節がある。
目前には受験、其れに合格する為には、お金を出すことも厭わない人達のもと、受験に対する勉強をする。
偏差値の高い高校や大学を受験するのは将来学歴社会で生き残るため。
勉強したら偏差値が上がる。学歴も上がる。
そう、思い込まされているような気がして仕方がない。
話は少し変わるが、先程の一節「勉強したら偏差値が上がる」について、自分はこれにも疑問を感じている。
勉強量や勉強の質と偏差値の向上は必ずしも一致するものではない。
先程の一節は「努力は必ず報われる」そういう言葉と同義の意味を持つと思う。
自分は、努力は必ず報われる、などと言った言葉が苦手だ。綺麗事だと思う。また、其れを教える学校の道徳教育にも辟易している。
何故なら、学校の道徳教育などで取り上げられる文章を書いている人は、其れが可能な知名度があるからだ。勿論、その人達も努力はしているだろう。だが、努力が報われなくて足掻いている人もいる。そういう人たちの言葉は取り上げられない。何故なら取り上げられるほどの知名度もないからだ。成功している人を羨望している歪んだ視点に見えることは重々承知だが、書いた。
話は戻して学歴社会の話だ。仮に良い高校、大学と進学したところで何があるのだろう?当たり前だが、難易度の高い高校、大学を受験することによって難易度の高い学習を享受することが出来、治安が良い傾向もあるだろう。
だが、それで実践能力は身につくのだろうか?何処の高校、大学でも言えるが、社会に出て使う能力を養うことはできているのだろうか。学歴がただの肩書になっていないだろうか。
良い大学出身だからといって活躍できるわけではないし、学歴があまり良くないからといって実践能力が低いとは一概には言えない。
だが、学歴によって働けるステージが変わっているように思える。
高学歴なほど主要企業に応募しやすいような社会の仕組みができているのではないか?
そして、其れを可能にするために幼少期から言われ続けるのではないか?
「良い高校、大学に行きなさい。出来たら中学受験もさせたい。そしたら良い企業に就職出来る」等といったことを。
自分の書いた文章を読み返してみると、接続しが多用されており、流れが掴みやすいような気がする。
これも国語の説明文の読み過ぎによる受験の名残だろうか。