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春の陽気、初夏の入口と少々「法」のお話

さて、春である。暖かくなってきたので、何か書いてみようと思い書いてみる。内容としては単純に、前半はコミカルな日記、後半は日記から考える少しだけ真面目な個人の感想文である。なんというべきか。ある種の諦観の念を書き起こしたようなものである。

・前半
春眠暁を覚えず云々…。どこかで聞いたようなものであるが、まぁ意味はよく分からない。
とりあえず、晴れ渡る青空に、揺れる春の野草を見、風が通り過ぎるのを感じる。これだけで何かよい。蝶々の姿を見て夢心地である。
 だけれども、地球温暖化の影響が知らないが、もう暑い。確かに、昔の季節にのっとれば今は「夏」ではある。とはいえ暑い。エアコンもつけた。そしたら、なんと水がエアコンから垂れてきた。室外機のホースが上を向いており、水が逆流しているらしい(直した)。
 ホースを直しにベランダに出る面倒くささに、私の思いも逆流しそうであった。とはいえ、この時期のそよ風というものは、永遠に感じていられる。ずっと、外のベンチに座って一日を終えることができそうなものを、ベランダに出て感じることができたので、よしとしよう。
 しかし、暑いと困るのは、パソコンといった機械の調子が悪くなることである。実はわたくし、なぜか某大学院で院生をやっている。そのため、いろいろと調べたり書いたりするのに、パソコンを持ち運んだりするわけである。学部生のころ、夏にパソコンをリュックに入れ、大学まで通学したが、大学についた頃にはパソコンが熱にやられ、充電したのに残り10%といった状況になったことがある。
 また、大学に院生用の印刷機がある。これが中々のくせ者である。一枚印刷するごとに、ピーピーなり始め「印刷用紙が詰まっています」という。詰まってないのに、である。その度に、印刷機の中身を見るためのカバーを開け、勢いよく閉めると解消されるので、15枚印刷するなら15回その作業をしなくてはならない。夏になると印刷できない冷や汗か、暑さ故の汗か見分けがつかなくなりそうである。
 このことを友人に言ったら、「おじさんもね!人生ピーピー鳴ってるんだよ!」とか、絶妙なジョークを飛ばしてきた。落ち着けよと思う。まぁ、冗談をいっていられるだけの余裕がある。悪いことではあるまい。
 ちなみに、友人は「おじさん」と自らを称しているが、まだ20代中頃である。若いね。私も同じである。類は友を呼ぶのだろうか。私も変だが、周りも変である。とはいえ、なかなかに面白い。人生の不思議さを感じる。

・後半
 さて、そんな愉快な仲間たちであるが、友人伝いに色んな人たちとの交流を見聞きする。友人らがいった大学も様々で、聞いたことのあるところから、私のいっているこじんまりとしたところまで幅広い。先ほどの人生ピーピー友人は、実のところそこまでピーピーしているとは思わない。本を読んだりして、「生きるってなんだろう」という思索をし、「人間性」というのが正しいか分からないけども、深めている。高校以来の友人であるが、明らかに「成長」しているのである(本人は気づいていないようであるが)。
 もちろん、「成長」しないことは悪くない。いつ、どこで「成長」するかは人それぞれであるからだ。ただし、悲しきかな、遠藤周作の『沈黙』を読むとわかる。「成長」しないという意思と、いつかは向き合う時がくるのだろうと感じる。
 そもそも、「学校」という制度自体、近代以降になって工場労働者を生み出す画一的な教育手段として取られた制度である。インダストリーという単語は、調べるとわかるが「勤勉」という意味もある。つまり、「産業」とは「勤勉な労働者」を必要としていることが垣間見える。年齢で区切り、多数の子供を一定の基準に達せられればよいわけである。そうすると、求められた基準からあふれる子供がでてくる。その包摂をめぐって昨今色々問題になっているわけだが。
 しかし、事実として、少なくとも法的な立場から見ると、ある程度の「同質性」が社会の秩序維持に繋がることは自明であるとされる。「自由」も「権利」も保障されるべきなのは確かだ。他方で、共通の意識なるものがないと、意思疎通ができない。つまり、「同じ感覚」という前提が必要となる。同じ言語を話せるからこそ、意思疎通ができるのと同じようなものだ。もちろん、多様性のある社会を目指す必要がある。ではどうすればいいのか。
 問題点を見出してみると、「自由」との兼ね合いから推測されるに問題点は、「どこまで同じであるべきか」という点であろう。自他の境界をどこまで引くのかということである。
 私としては、この問題について、正直答えがわからない。なぜなら、これはひたすらに生身の人間同士の交流をもって、お互いに理解しあっていくしかないと思っているからだ。何か、理論めいたものがあるのかいえば、たぶんない。私は法律を専門にやっているが、法律にできることは、「可能性」を提供することしかできない。もし、憲法といった法律に、何か求めるとするならば、それは難しい気がする。難しい話になるが、法律の「権利」を行使するのは、自分自身である。法律に全てやってもらうと、私自身は法律の目的を達成する手段になってしまう。法律に助けてもらおうとして、私自身が実は法律の「道具」になってしまうかもしれない。立場が逆転してしまう。
 民法を家族主義的なものから個人主義的なものに変えると、よりよくなる可能性はあるが、それでも、やはり先ほどの問題点は消えない。というよりも、この問題点は法というものの「宿命」のような感じがする。実のところ、近代に入ってから、法律の役目は「争いの調停」や「国家権力の抑制」である。そのため、「国家が個人を保障します」というのは、実は非常に厄介な問題なのである。気になる人向けに少しだけ述べておくと、「自由権」と「社会権」は、歴史的には水と油の関係である。平凡社の大百科事典か、だいぶアレだが「現代マルクス・レーニン主義事典」をみると書いてある。アントン・メンガーと森戸辰夫の箇所も調べるとよいだろう。
 余談だが、実は終戦後の日本国憲法制定過程で、民法の改定も議論になっており、当時のお偉いさんが、「急に変えると社会が混乱するから、少しずつ個人主義的なものに変えていこう」という話ではあったらしい。今まで変わっていないが。
 真面目な話過ぎたが、考えるだけで気が滅入る。知ることは面白いが、おそらく永遠に答えはでない気がする。とにかく、その時を生きている人間が、どうにかならんかと、努力をし続けるしかない。多様性のある社会に向けて絶えず考え行動するしかないのだろうか。
 まぁ、「法」の限界とかについて、これから先、書くかもしれないが、温かい目でみといてほしい。どうせ、学問的ではないので、論文になることはないのだから。大学も、狭い世界である。

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