朝日の陽光は水たまりに反射し眩しく見える。早起きしてゴミ捨てに行くのも億劫であるが、ゴミが溜まるとそれはそれで嫌気がさす。仕方ないので無理やり起きてゴミ捨てにいくわけである。
しかし、そのような朝を部屋から出て迎えると、その良い天気に心が晴れるものである。心のどこかでそれを求めているのだろうか。意外と部屋にゴミは溜まらない。
安楽椅子に座って、ずっとそんな景色を眺め、ずっと日光を浴びていたいものである。
安らぎのある場、それをずっと待ち望んできたが、なかなか訪れない。一方で、何かに追われる日々は、寧ろ過去の思い出さえも遠く向こうへおいやり、束の間の安息をもたらす。
追われる日々の中で、休憩していると昔の思い出がふと浮かぶ。決してよい思い出ではない。そんな思い出が過ぎ去る日々をかすめていく。筋肉というものは、運動することにより傷つく。傷つくことで、さらに強くなるらしい。少なくとも私にとっては、かすめていく思い出が心を傷つけ、筋肉のように損傷と回復の連続をもたらす。
とはいえ、それは私自身の話。人によっては、耐えることも難しい人がいるだろう。私はどうも、ここまで来てしまった。慢心か、傲慢か、わからないが、同年代の人よりも先にきてしまった気がする。
とはいえ、妙に怒りっぽい、感情的なところもある。ある意味、「若い」証拠でもあるのだろう。かつて阿川弘之という作家は、年をとってからも怒りっぽい性格であったらしい。私も同じようになるのだろうか。阿川弘之は、端的にいえば「神を抜いた遠藤周作」のような作品を書く気がする。つまり、戦争を生き残り、戦後のオプティミズムについていけなかった人のような気がする。それが怒りっぽさの原因ではなかろうか。
嵐の過ぎ去った跡に残るは、荒れ果てた土地。土地を耕し、自然の緑が溢れだすようにすることはできる。しかし、嵐という過去は残り、嵐を経験したことのない自然を見て、嵐を知らぬ景色にもどかしさを抱くのが人の情というものだろう。その中で、嵐を知らぬ自然がのびのびと育つことを、ただ静かに願うのである。
せめて、人の幸を願い、ただ人の生をまっとうしていけることを、祈れる程度には、人格を有していたいものである。
外から与えられた理性も道徳もいらぬ。ただ自らの裡より発する祈りこそ、理性や道徳と呼べるのだろうか。せめて他人と馬鹿騒ぎして、ギャーギャー騒ぎながら死んでいかなくては、死に損であろう。
ちなみに、本当にギャーギャー騒いでいるのだが、大学内の一部で「有名」になっているらしい。悪名とは世に広まりやすいというが、どうやら本当のようだ。皆さんは節度をもって騒ぎましょう。
朝と霞
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