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胡蝶之夢 なぜ龍は昇り、小鳥は歌うのか

 どこかの漢詩だかに、天頂まで届いた龍は、後は下るしかないという、中国の故事があった気がする。
 「届く」という漢字には、「由」とある。「自由」の「由」である。「宇宙」にも使われている。この「由」とは、「気まま」「ちゅうぶらりん」のようなニュアンスを感じるものである。この「由」にまるで屋根がついたように「届」となる。つまり、何か気ままに、ちゅうぶらりんと、さまよっていた?ものが到着するということだろうか。何かを発する源があれば、流れ着く先があるということである。いかにも道教思想に見られそうな発想であるが、個人的には間違えていない気もする。
 というのも、人の生を考えるときに、生まれ、そして死んでいくわけである。時に龍の如く昇る者もいる。かたや、龍の如く昇れず、水面を飛ぶ小鳥のような者もいる。荘子に習えば、小鳥から見れば龍は傲慢であり、龍という偉大さを理解できないとする。
 これは要するにこれは比喩として「浅ましい者」を指す。我々は頭の中に龍や小鳥の姿を見る。それは、何か具体的な形をもつ存在として、である。そして、我々は現実に生きている有名人から近しい人までを見たとき、誰が龍で、誰が小鳥かを、意図せずに無意識に感じているわけである。
 しかし、本当にそれは龍であろうか。それは小鳥であろうか。自らの認識が誤っており、小鳥を龍として、龍を小鳥として見てはいないだろうか。他方、それを見極める基準などない。
 そういうこともあり、私自身を小鳥とみなし、ささやかに囀りをしよう。その囀りに、好意をもつ者、獲物と思ってよってくる者、様々であろう。ただ、それを切り裂く刃もない。しかし、小鳥の矜持は龍と同じぐらいに偉大であることはできよう。姿形は中身から生じる。真に身のある龍はもはや龍それ自体であるが、それに負けじと夢を見れば、小鳥さえも龍である夢を見るのである。もはや主客の同一である。
 そして天頂にまで飛んでいける。たとえ夢であっても、である。しかし、天頂の先に何があるのだろうか。天頂の上には何もない。ただ、降るだけである。
さて、降ることは悪いのだろうか。「人生山あり谷あり」とはいうが、そうではない。ただ降るのである。生まれてこのかた、歳をとれば老いる。老いれば自ずと死を意識せざるを得ない。いや、場合によっては、若いときから死を意識することであろう。

死を意識することは悪いことか。否、価値判断の範疇ではない。究極的な形而上の話である。しかし、現在において、「信仰の対象の喪失」は、明らかに死を遠くにしているようで、していない。
 アイドルであろうが、何であろうが、「信仰」すなわち今風に言えば「推し」であろう。夢を見て、龍を見るは、己の劣等感を刺激し、苦痛を避けるために死を尊ぶのである。そこで、「推し」を見、応援することで、死を遠ざける。本能的に死は悪であるからだ。しかし、「推し」を推し、死を尊びながらも遠ざける。これは、ひとえに利他性のなせることである。つまり、「推し」にハマるとは利他性の現れともいえる。逆にいえば、利他性ゆえに「信仰」の対象があり、それに尽くすことが生きがいとなるのである。
時代によって、対象が宗教、国家、金銭と移り変わってきたのであろう。対象の不存在が、人から離れた倒錯した状態を生み出すのだろう。
 そのような、ある種の人間本性ともいえる性質を離れて、小鳥が夢を見、龍の如く天頂に達することがそもそもできるのかという疑問が生じる。
そもそも、なぜ昇る必要があるのだろうか。もしかしたら、昇るも昇らないも、同じかもしれない。なぜだろうか。つまり、「昇る」という決断も、「昇らない」という決断も、自らの決断という点では同じである。つまり、その先にある結末を自らの裡に受け入れるということである。
 つまり、実は、「昇る」「昇らない」は重要ではないのかもしれない。更に言えば、「降る」ことさえも、この際どうでもいいことである。それは、結果に過ぎないのだから。
 小鳥も龍も、その場にいても「夜空に輝く道徳律とは己の事なり」とでも、感得すれば、これはもう小鳥も龍も、違いはなのかもしれない。自らが小鳥であるか、龍であるか。それは束の間の夢に過ぎず、夢か現実かはどうでもよく、まさに「夢心地」の如く昇り歌う。ただ、眼前に広がる景色、それが荒野か、草原か、それに関わらず、である。
 天と地、龍と小鳥、それは文字の違いであり、認識している具体的形の違いであり、性質の違いである。自らの手足を見、自らを人間と認識し、思考し、再び人間であると意識する。他人を見て、同じ人間であると見、思考し、認識し、他人も人間であると意識する。しかし、他人の外見、言葉、表情からしかわからない。相手が本当に人間であろうか。

否、それを問うことなかれ。相手が人間でないとして、それは問題とならない。夢か現実か、関係ないからである。天長地久の事象は、「世界」それ自体しかなく、万物は流転する以上、その枠組みしか存在しないからだ。この世界が夢か現実なんて峻別がつかない。そうである以上、是非を問うことはできないのであるから。
 では、世界を綺麗な言葉で飾る必要はかろう。世界は汚い。それでよい。天長地久なのは 「世界」という枠組みに過ぎないからである。生物に不滅はあり得ぬ。国家も同様であり、企業も同様である。日本の歴史は世界で一番長いというが、それは「国体」の話で、「政体」の話ではない。人は集団になるが、集団化すれば廃れる。
 汚いからこそ綺麗にする必要があるのだろうか。純白は漆黒があるからこそ存在し得る。汚いからこそ、綺麗がある。綺麗のみは、もはや「綺麗」という概念が存在しえない。概念は対となって初めて意味をなす。故に、汚い、綺麗それ自体が問題となるのは、枝葉末節な議論になるであろう。理念と現実の狭間において、「歴史」という「意味」の創出。それが人間の真の意味での「本性」なのだろうか。
 「歴史」という「意味」を創出する。故に、龍は昇り、小鳥は歌うのだろうか。

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