人が死ぬ。そして悲しむ。それは通常行われる人間の生理現象のようなものである。他方で、主観的に、自己自身にとっては重要な契機でもある。
すなわち、自殺とは自己の喪失と共に他者の喪失であり、他者の喪失は自己の喪失である。後に残された者のことを考える必要がないとすれば、それはどうしようもないが、後に残る者への影響を考えるならば、自殺というのは、実は他者を傷つけてしまう行為かもしれない、ということである。
自己にとってどのような属性をもった他者であるかに左右されることもあるだろう。とはいえ、友人の自殺等による喪失は、明らかに自己の欠損を意味する。自殺した他者とのあり得たかもしれない記憶を思い描き、来世に向かって祈ることしかできない。
個人は自律した存在であるとともに相互依存的な存在である。この2面性は否定しがたい事実であるところ、他人の死は自己の死を意味しかねないのである。
裏を返せば、自己がありのままで豊かであること、それは他人も豊かであることを意味するのではないか。他人が豊かであれば、自己も豊かである。
しかし、自己のために豊かであるほうがよい、他人のためではなく、自己のために、すなわち利己的であることが、結果的に利他的である、と思う。
他者の喪失は自己の喪失であること
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「自分が生きていること」「自分のために生きること」「自分が自分として生きること」「自分が幸せでいること」
これらは他人を犠牲にしていることでしかない、そう俺は思っていました。
でも、貴方のこの記事を含めて他者の言葉に触れて、それは偏見なのかもと思えました。
「貴方が生きていること、貴方が貴方のために生きること、貴方が貴方として生きること、貴方が幸せなこと、それらは断じて罪じゃない、それどころか、むしろそれこそが他人の幸せなんだ。」
貴方の記事を見て、そう言ってもらえたような気持ちになり、心が軽くなりました。
(注:投稿者はn-salonとなっていますがコメントは研究員からのものです。コメントは研究員限定で受け付けています)