Q.どうして「働きたくない」という気持ちが、軽んじられて切り捨てられる現実があるのでしょうか。
「働きたくない」の裏にある切実な苦痛や絶望や罪悪感に、当たり前のように寄り添ってもらいたいって、理想論かもだけど、願ってしまいます。
A.世の中の「働く」があまりにも狭くて歪なものとして理解されているための気持ちではないかというのが、カエルの見解です。おそらく質問の中の「働く」は賃労働のことだろうと推測します。つまり要素的には
①組織に雇用されて組織の都合で用意された条件に合った仕事をする
②組織の都合に合った仕事をすることで、対価をもらう
③なおかつその稼ぎで自分の生活費を賄う
の3条件が当たり前に含まれるとなると「働く」は一部の人にとってとても過酷なことであり「働きたくない」と思うのは当然だと思います。それは個人の気持ちではなく、もはや社会の課題への問題提起だと思うからです。ただ、「働きたくない」と言ってしまうと、働く意欲がないとか、個人の気持ちの問題とかわがままだとか言われて批判されてしまい、本質が伝わらない可能性があるため、違う表現をした方が真実が伝わるのではないかと思うところはあります。
カエルにとって「働く」とは、社会の一員として、その人なりに支えあいに貢献することだろうと捉えています。貢献というのはとても幅広く、あらゆる人や人だけじゃなく動植物祖含む自然環境も、できるだけ持続可能に豊かにあるためへの貢献だと思っています。だから企業で働くことだけでもなく、お金を稼ぐことだけでもなく、経済的な自立と直結することではないと理解しています。
また、働くためには権利が守られているのが前提で、権利が守られてない人や過去に権利が守られていなかった後遺症で苦しむ場合は、まずはケアをされるところからはじまるべきだとも考えています。安心安全、理解、ケア、チャンスが保障される中にあればだれもが働くことは可能であり、それは過度な苦しみや負担は起こらないでしょうし、働くのが嫌だと抵抗をする必要もないと思います。むしろ、働くこと(労働)が喜びや自己実現につながっていくものと思っています。
このあたりは、マルクスというとても有名な哲学者でもあり、経済学者でもある人が随分と前に主張しています。カエルはマルクスさんが考えた「働く」のとらえ方は今の社会を見直すときに一つの参考になる考え方だと思っています。きっと他にも「働くって何なの?」って考える機会がそもそも必要だと思うので、こうした質問はとても大切だと思っています。
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