Q.「好き嫌いの発信」と「ヘイトスピーチ」の境目ってどこにあるのでしょうか?
他人のしてるファッションや他人の好きなものなどに対してなら好みの発信、アイデンティティに対してならヘイトスピーチ、そのような感じなのでしょうか?
好みすら自由に言えないのは問題だと思うけど、ヘイトスピーチで誰かが苦しむのも問題だし、単純に誰かが見て傷つくか傷つかないかを基準にしてしまうのも数値化できないし個人差もあるしだから違う気がして、境目がわからず悩んでいます。
どう思いますか?
また、「何でも偏見だからと叩かれて、好みすら自由に発信できなくなるのはどうかと思う、知らない人がどう言おうと害はないし好きに言わせておけばいい、だから自分のファッションや意見が他人の好みじゃないことで傷つくのは傷つく側の問題」という意見についてどう思いますか?
僕自身はその意見に対して、他の部分は一理あると思いましたが、「傷つくのは傷つく側の問題」という部分には納得できませんでした。傷つくかどうかはコントロールできるものじゃないと思うからです。
ただ、傷ついたことを理由に相手と言葉のバトルを始めてしまうとなると話は変わってくるのかもしれないなとも思いました。
A.ヘイトスピーチの定義を改めてネットで調べてみたところ、「対象への明確な差別的な意図に基づく暴言や差別的行為を先導する言動」というのものになるそうです。なので、例えば他人のファッションを「自分は好きじゃない」といった形で表現するならヘイトスピーチには該当せず(ただ、わざわざSNSなどで発信するのは、結果的には悪意に近くは感じます)、「ああいう服装のやつらは消えればいい」とか「人として未熟」とかの、攻撃や人格否定まで含むとヘイトスピーチに入るのかなとウ・サギは解釈しました。
「傷つくのは傷つく側の問題」というのは、ある部分では間違っているし、ある部分では真実でもある言葉かなとウ・サギは思っています。傷つきを、傷つく側に問題があるだけ、傷つく側だけで対処しろという話(自己責任論的な考え)で使うなら、ウ・サギはこの考えに反対です。ただ、たとえばファッションを否定されても、とくに何も思わない人や、ただただ腹が立つ人、深く傷つく人までいろいろいるので、傷つきというのは傷つく側の人の中で起こる現象だとは思います。それはその人が弱いとかではなく、抑圧され否定されてきて「自分はダメなんだ」という自信のなさがあるゆえに起こることであって、だとしたらそれは社会構造がその人を追い込んだ結果の人災だとウ・サギは捉えます。
だから傷ついたという現象を、傷つけた発言をした一個人を加害者とし、自分を被害者と定義して語るのは(あなたのせいだという発想)、問題の本質を見失い解決を遠ざけるだろうとは思っています。とはいえ、傷ついたことで被害感情が湧くのも当然ですし、傷つけた側のほうに社会的優位性があるなら広い意味での加害ー被害は正しいものなので、難しいですが……。理想の展開としては、傷ついたということは伝えた上で、その現象が起こったことは双方で受け止めて、傷つきがなぜ起こったかを対話の中で深めて、お互いをわかり尊重し合う次へとつなげられることなのかなとは思っています。
回答:ウ・サギ

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