Q.他者を怖がらせてしまったり傷つけてしまうかもしれない特性を持つ人がいたとして、
その特性を理由にその人が排除されたり攻撃されたり「社会で受け入れるなんて無理だ」とか諦められたりする風潮や仕組みは、僕は悲しいし嫌だと感じる。
人は人に変わりないし、その特性がその人の全てではないと思うし、加害は止められるべきでも、特性に関して、特性を持つ本人と周りが共に折り合いをつけて調整していくことを最初から切り捨て諦めて、排除したり攻撃をするような風潮や仕組みは嫌だ。手放しで受け入れられなくても、棲み分ける道や互いに折り合いをつけて調整をしていく道は、あるんじゃないかと根拠はないけど僕は思う。
そう感じるんだけど、僕自身も他者に「怖い」とか「関わりたくない」とは思うし、「自分の平穏を乱されたくない」とも思うんです。どちらも確かな僕の感覚で、だからこそ矛盾が苦しいです。
どう思いますか?
A.まっとうな主張だと思いました。個々にキャパがあるのも当たり前なので、大切なのは、いかに共同で(それぞれが自分にできることを持ち寄って)誰も切り捨てない社会を成り立たせるか、という視点だとウ・サギは思っています。
また、普遍的な真実として、人は環境に左右される生き物です。そして、加害行動はストレスが一定値を超えたときに起こるとウ・サギは思っています。特性のある場合は、何かしらの大きい不得意や苦痛があり、それの対処や発散が一人では困難になってしまう状況が、他の人よりも生じやすい傾向があるように感じます。逆にいえば、誰だって同じ量のストレスを浴びれば、自分をコントロールできなくなるとウ・サギは思います。だからこそ、誰かが自分をコントロールできずに他者を傷つける「状態」にある人を切り捨てるのは不適切だというのがウ・サギの考えです。切り捨ての論理を一度適用すると、それはいつか自分へも適用されかねないものになると思うからです。
自分一人ですべてをどうにかしようとするのは、誰にとっても無理なことです。無力な立場で理想を大きい声で叫ぶのもきっと違うとは思いますが、たとえば救命で電話をかけて救急車を呼ぶ役割も大切なように、誰でもささやかにできることはあるはずだとウ・サギは思いますし、自分の感じたことをアイメッセージで発信し、考え続けるのもその一つだと感じます。その余裕もないなら、まずは自分を助けることをしていいし、とにかく自分が困ったときにも安心して暮らせるように、助け合いの論理はぶらしたくないウ・サギです。
回答:ウ・サギ

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