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Q&A
Q.「表現する性」について、こういう表現が女、こういう口調が男というの自体に違和感を感じる
この記事の担当 ウ・サギ

Q.人間の性は4つあって、そのうちの1つが「表現する性」だそうですが、そもそもこういう表現が女、こういう口調が男っていうの自体に違和感を感じます。

A.なるほど・・・そのあたりは、難しいですよね…。それぞれが自分らしい表現を選んでいいし、本人が「自分の表現の性は男です」と言うならそれもいいですが、周りや社会が「あなたの表現の性は男なんですね」とか「これは女性の表現、これは男性の表現」と規定するのは違うよなあ、とウ・サギは思っています。
だから表現の性、心の性、好きになる性については、男・女・中性みたいに分かれる以前に、そもそも「性別の枠組みがある」人と、「性別の枠組み自体がない」人に分岐するのかも?とちょっと思いました。最近だと、ノンバイナリーというものが、たぶんそれに近しいものなのかなと認識しています。
性は4つという考え方も、あくまで整理の仕方の一つであって、絶対的な枠組みではないのだともウ・サギは思っています。

update 2025/4/7
Q.メンタルがやられると負の感情を書き出すが、それによって自分の弱さが明確化しさらに弱くなっている気がする
この記事の担当 ウ・サギ

Q.ストレスがあるとすぐメンタルがやられてしまいます。けれどこのことを誰かに相談したくありません。
そういう時、私は日記に負の感情を書き出すのですが、書き出すことで自分の弱さが明確化し、さらに弱くなっている気がします。どうすればいいでしょうか?

A.ウ・サギも負の感情を書き出すタイプなので、仲間だ…!とまず思いました。ウ・サギは負の感情の書き出しが激しかった時代は、自分を励まし支持してくれるイマジナリーフレンドみたいなのをつくって、書いたものにコメントをもらうことをしていました。だから、書き出すことでさらに弱くなっていると感じるなら、書き出した内容を、何かの枠組みを使って整理してみるのはどうでしょうか。認知行動療法、アサーション、バウンダリーあたりを調べてみたら、自分が弱いだけではないという見方が発見できるかもしれません。
とはいえ、誰かを頼るという選択肢もあった方が便利なので、うまく相談も使えたらいいのになあ…とぐるぐる考えました。相談に色々と抵抗があるようですが、自立した(それこそ、アサーションやバウンダリーのしっかりしている)大人は、自分のキャパを超えて負担に思ったなら、それを優しく伝えてくれたり、自分で回復できる力をもっています。だから自立した大人を見極めることさえできれば、どんどん相談しても、自分にも相手にも悲惨なことは起こらないとだけは伝えておきます。
また、あなたは弱くない自分になりたいのだとウ・サギは読み取ったのですが、弱くない(=頼り上手、頼られ上手だと思っています)自分になるためには、頼る経験を積んでいくことが大切だとウ・サギは考えています。だから、相談する=弱くない自分に近づくための訓練、という考え方も提案したいです。
生きづLABOへの質問で、すでに訓練はスタートしていると思うので、これからも無理ない範囲で訓練を続けていってほしいとウ・サギは思いました。

update 2025/4/7
Q.大人ってみんな自分の間違いや失敗を認めないよね。しかもそれで人に迷惑をかけても謝らない!なんで?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.大人ってみんな自分の間違いや失敗を認めないよね。しかもそれで人に迷惑をかけても謝らない!なんで?

A.カエルもオタマジャクシのころ、同じことを考えていました。これは推測ですが、知らないうちに「間違ったり、失敗することはよくないことだ、あってはならない」という呪いをかけられているからではないでしょうか。呪いのせいなので、そんな大人は自分のおかしさに気づくことができず、ひたすら自己正当化に走るのです。そして、質問者のような子どもたちに見抜かれる…悲しい現実です。
子どももやがて大人になります。呪いにかかることのないよう、子どものうちから「あ、間違ってた」「失敗しちゃった」「ごめんなさい」と素直に思える自分の心を大切にしましょう。
また、間違いや失敗はそもそも、見方を変えると「間違い」ではなく「違ったやり方、違った結果」かもしれないですし、「失敗」ではなく「学びの機会」「想定外だった」だけかもしれませんよ。

update 2025/4/7
Q.髪の毛の掃除をしてると、死にたくなります。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.髪の毛の掃除をしてると、死にたくなります。私は髪が長いのですが、それが大量に溜まっていたりして、頑張って掴んでゴミ入れに入れるのですが、生きていくの、つらいなと思ってしまいます。何をどうしたらいいでしょうか。

A.なるほど・・・なかなか興味深い現象ですね。
生きていく苦しさ・煩わしさのようなものがまず先にあり、髪の毛がそれを象徴するもの(思い起こさせる刺激)になっているのかな?と感じましたが、どうでしょうか。
いつから髪の毛の掃除をすると死にたくなるようになったのか、一時的にでも楽になることはあったのか・・・等々、質問してみたいです。
現実的な対策としては、丸刈りにしてウィッグで生活をするという方法は浮かびましたが、あれはあれで大変そうだとも想像しています。

ウ・サギの経験則としては、何がきっかけであろうと死にたいと思うことがある場合は、自覚できないストレスや傷つき(または認知の何かしらの過敏さ)が潜んでいる可能性が高いです。もし研究・分析が少しでも出来そうなら、結果を聞いてみたいな・・・と思いました。

update 2025/4/7
Q.命はお金で買えないよっていうのに、なんで私達人間はペットを買ったり肉を何の抵抗もなく食べるのでしょう。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.命はお金で買えないよっていうのに、なんで私達人間はペットを買ったり肉を何の抵抗もなく食べるのでしょう。殺して食べちゃうんだから、殺人よりタチが悪く無いですか。

A.「命はお金で買えないよ」という言葉が、どんなシチュエーションでどこの誰が言い始めたことかはわかりませんが、ペットを買ったり肉を食べるのがタチが悪いかどうかを考えてみたいと思います。

基本的には、ほとんどの人は、人間と人間以外の命を分けて考えているとウ・サギは感じています。そして、人間の命とそれ以外の命の何が違うかというと、「自我」がある部分だと思っています。
自我がある存在~もう少し詳しく定義すれば、周囲との継続的な関係をつくり、未来を(感覚的にであれ)予想し、意思がある存在~にとっては、唐突に理不尽に命を奪われるかもしれない世界や、売買される世界で生きるのは、かなり酷なことだし、倫理に反することだとウ・サギは感じます。安心安全、自分の意思が保障されない世界では、自我を健康に保つことがおそらく難しいので……。

ペットや家畜が(そういった次元での)自我のない存在でないとは断定できませんが、そうじゃないと想定すると、売買も屠殺も倫理に反するとまではいかないのかなと思います。未来を不安に感じたり、何か起こったときに「どうして?」と傷つくわけじゃないのなら、死ぬこと自体は生命にとっては自然なことだからです。

動物たちの自我がどういうものかについては、今のところ理解する術がない(想像の域を出ない)ため、動物を人間と同等に扱う扱わないの正解はないし、売買や屠殺に抵抗を感じるのも感じないのも、そもそもそういったことを考えるのも考えないのも、それぞれの自由なのかなあと考えています。

ちなみに、ウ・サギはニワトリを自分でしめて捌いて料理して食べた経験がありますが、わりと抵抗なく美味しくいただきました。(でも、抵抗を感じる人も少なくないだろうな、とは思いました)
ペットを売買しない、ビーガンとして生きる、といった選択肢もありますが、ウ・サギはそれらを我慢すると差し障りがあるレベルで日常の潤いが減るので、ペットは最期まで責任もって面倒を見る、お肉はなるべく無駄なく美味しくいただく、とだけは自分に誓っています。
あまり回答になっていなかったらすみません。

update 2025/4/7
Q.親に学校行きたくないって言ったら、学校は必ず行くところって怒られた
この記事の担当 生きかたカエル

Q.親に学校行きたくないって言ったら、学校は必ず行くところって怒られた。なら不登校の子はどうなの?同じ理由で来てない子もいると思うんだけど?

A.親はわかってませんね…おそらく、義務教育の意味をはき違えているか、正しく理解したうえで、親の強権を濫用しているのかもしれません。どちらにしても、学校は行ってもいいし、行かなくてもいいところです。
義務教育は「子どもに学ぶための権利を保障する義務が大人にある」という意味の義務教育で、小中学校は「どんな子どもにも学びを保障するためにあるところ」といえます。ただし、日本の学校はいろいろな課題があり、学校に行くことが学びの保障にならず逆に子どもの権利が侵害されてしまう実態もあります。また、長い間、画一的、管理的な側面があったことから、一人ひとりの学びのニーズに応えることが難しく、学校に行っても学ぶことができない子どもたちもけっこういます。だから、学校が学ぶ場としてふさわしくない、勉強どころではなくつらい状況があるのであれば、無理をして学校に行くのは本末転倒なのです。
そして、明確な理由がなくても、「行きたくない」という気持ちは大切な気持ちで、その気持ちを受け止めたり、理解することなく、大人が力を行使して「行くものだ」と圧力をかけることは子どものことをわかってない…という判定をカエルは下します。
学校がもう少し子どもにとって安心安全で、多様な学びが可能なところになってもらいたい+学校以外の豊かな学びの場を子どもたちに用意する世の中にしたいと思います。

update 2025/4/7
Q.不安で何でもやりすぎてしまう。おおらかな性格に憧れるが、どうしたらそうなれるか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.不安で何でもやりすぎてしまいます。昨日も、お腹が痛くなったらどうしようと不安でお肉を焼きすぎて、パリパリ(カリカリ?)にしてしまいました。おおらかな性格に憧れるのですが、どうしたらそうなれるでしょうか。

A.残念なニュースとなってしまうのですが、おおらかな性格になる(性格を変える)のはかなり難しいというのがウ・サギの調査結果です。
ウ・サギは不安でいっぱいの神経質な性格で、自分を変えようとあれこれ足掻いたこともありますが、結局は、自分は自分にしかなれませんでした。ただ、不安でいっぱいなりに、不安との付き合いに慣れていくことはできるのと、逃げてもいい不安からは逃げてOKだとも思っているので(今はなかなかそれが難しい環境なのかもと想像しています)、不安に振り回される度合いを下げるのは可能だと感じています。
だから、憧れは憧れとして捨てきれないかもしれませんが、おおらかを目指すよりも、不安を軽減させる工夫を探していくのをおすすめしたいです。ウ・サギはストレスを減らすと不安が少し大人しくなりますが、不安というやつは、どうして根拠なく執拗にあそこまで暴れるのでしょうね……。

update 2025/4/7
Q.苦労した分だけ偉いって風潮。それもそうだけどそれが全てではなくない?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.苦労した分だけ偉いって風潮。それもそうだけどそれが全てではなくない?

A.ウ・サギも同意です。
苦労した分だけ偉いというのは、「自分がした苦労を無意味だと思いたくない…!」と思う人が自己肯定のために使っている考えだとウ・サギは感じています。
そもそも、苦労といってもいろんな質の苦労がありますし、比べて偉いとかではなく、お互いの経験を尊重できる自分でありたいです。(と言いつつ、自分の苦しみを無意味だと思いたくなくて、死にたい自分と付き合った分だけ偉いと思っている節のあるウ・サギなのでした)

update 2025/4/7
Q.ストレスのかかる場所にいないと落ち着かないが、安心するストレスの量が耐えられる量より少し多い
この記事の担当 ウ・サギ

Q.ストレスのかかる場所にいないと落ち着かないけど、安心するストレスの量が耐えれる量より少し多くて、積み重なって辛い。休むと落ち着かないし、どうしていけばいい?

A.あなたの自己理解の力の高さにまず感心したウ・サギです。
ウ・サギは身を削って活動していないと落ち着かないので、ストレスのかかる場所にいないと落ち着かない、というのはなんとなく感覚的には分かる気がします。
どうしていくかの方向性は、落ち着いて休めるようになる、安心するストレスの量がもう少し減る、回復のスピードや質を上げていく、の三つが浮かびました。そのどれが良さそうか、もしくは別の方向性がいいのか・・・どうでしょうね。
心が落ち着かなくても、体を休んだり、刺激をシャットアウトするのはセルフケアに大切だとウ・サギは感じています。だからとりあえず休むのはしておいて、休むことの落ち着かなさを軽減する方法を探すのが良さそうにも思いました。
落ち着かなくなったら、また質問をくれるのも歓迎です。

update 2025/4/7
Q.生きづらさを創作で昇華し発表してきたが他人の存在が怖くなってきた。発表せず一人で作り続けるのもあり?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.感じたことや生きづらさを創作に昇華して、個人で発表してきました。いいねやコメントをいただいたり、ファンがついたりしましたが、他人の存在が怖くなってきました。交流はいらなくて、ただ作りたいだけだったのかも。発表せず1人で作り続けるのもあり?

A.ウ・サギは交流も発表もせずに創作活動をしているので(生きづLABOは表の顔で、裏の顔での創作もあるのです)、こちらの世界にようこそ、といった気持ちになりました。
ちなみにウ・サギは、非公開ブログ一つと、自分を理解してくれて(こちらから聞かない限り)感想も言ってこない相手にしか知らせてないブログ1つでこっそり活動中です。
どのように創作活動するのも自由ですが、創作はまず第一に自分のためにしていることだと(自己治療に近いかも、とも)ウ・サギは考えています。だから、そのときの自分の作りたいように、やりたいようやるのが一番だし、どんな形もありだと思っています。

update 2025/4/5