Q.私はいつ自〇をしてもおかしくない友人(2人)を支えています!私、疲れ始めています。今のままだと共倒れになってしまいそうです。それは避けたいです!どうしたら良いですか?
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Q.私はいつ自〇をしてもおかしくない友人(2人)を支えています!私、疲れ始めています。今のままだと共倒れになってしまいそうです。それは避けたいです!どうしたら良いですか?
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Q.写真を撮られることが苦手です。
撮られるのを避けようとしても服の袖をガシッと掴んで私を写そうとしてきたり、手首を引っ張られたりと写真を取られることが苦手な人は珍しいのかなと思ってしまいます。
写真を撮られるのが苦手なのはおかしいですか?
A.ウ・サギも写真撮られるのめちゃくちゃ苦手なので、仲間を見つけてテンションが上がってしまいました。どうしてみんな、一緒に写真をとるのを当然のようにハッピーなことのように求めてくるのでしょうか・・・。自分の顔なんて見て何がいいことあるのか?思い出は写真にしなくても心に刻んでおけば十分ではないのか?と、一部必要性を感じるケースは例外として、いつも戸惑い疑問に感じています。嬉しい気持ちではないのにピースをするのも自己一致できなくて基本しないし、なんなら共有してもらった写真も消しちゃうこともあります。(ちょっと罪悪感はありますが…)
だから写真が苦手な民は時々生息しているはずです…!ただ、ウ・サギは相手が求めることは相当の苦痛がない限り付き合う派なので、写真嫌いを主張していなく、写真が苦手な民の存在を知ってもらう機会を作れていないと気づきました。今後は仲間たちのために、チャンスがあれば相手の気持ちも尊重しつつ、写真を撮られるのが苦手なことを伝えていきたいと思います。
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Q.私は、この世界では安楽死どころか、穏やかに生き延びることすら過酷だと感じる。
穏やかに生きてゆくことも、穏やかに安楽死することも、どちらも選べる世界になってほしい。
叶わないのかもしれないけど、
切実に切実に願ってしまう。
どう思いますか。
A.読んでいる人に誤解を招かないように補足を少し説明すると、穏やかに生きることが可能な社会設計にし、安楽死において弱者の排除が起こらないのを最大限配慮した上での、穏やかな安楽死を選べる世界を切実に願っている、というのがここで望まれている安楽死の肝となっています。(ウ・サギはそう理解しました)
また、質問の趣旨は、安楽死制度についてのディスカッションではなく、それぞれの気持ちや自分のあり方が尊重される世界であってほしい、という願いだとウ・サギは受け取りました。願うことは自由ですし、補足を読んだ印象としては、質問者さんの人生経験や愛情に基づいた祈りとして「穏やかに安楽死するのが選べる世界」があるのを感じています。そこに含まれる切実さはひしひしと伝わってきますし、どう思うかと言われたら、質問者さんがそう感じるのは理解できるし、これまで生きてきたこと・考えてきたことをリスペクトする気持ちになりました。
それら全てを受け止めた上で、ウ・サギの感覚もちょっと書かせてもらうと、穏やかに安楽死を選べる社会設計を考えるのに自分がリソースを割ける日は来ないだろうとだけは感じています。それは安楽死への賛成反対の話ではなく、(世界規模で考えるととくに)最低限の暮らしさえ守られない人があまりに多すぎて、それに対して自分は最低限を守られているのにかかわらずあまりに力不足で、一生かかっても最低限を全ての人に保障しそれを維持するだけで精一杯・・・どころか、そこまで行けそうにないと感じているからです。まあ勿論やれると信じているからやってはいるんですけどね。
ただ、こういった個々の願いや気持ちを語れる場があること、それについてオープンに対話の機会があることは超大切だと思っています。質問ありがとうございました。
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Q.「Q.親に虐待されていて、体を傷つけるのは親不孝という考えを学びリスカを始めてしまった。」の質問に共感しました。基本的にはウ・サギさんと同じ感想でしたが、どこか現状に抗う反骨精神のような物を感じたのでその姿勢に尊敬の気持ちを伝えたいです。
A.質問ありがとうございます。どこか反骨精神のようなものを感じたのは、実はウ・サギも同じでした。
補足に「問題がありそうなら掲載しなくても大丈夫」と気遣いがありましたが、大丈夫だと感じたのでそのまま載せさせてもらいますね。
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Q.すごーく好きな趣味があるんだけど、周りと共有しても一緒に楽しめなかったり、イベント会場でテンションが上がって予算オーバーしてグッズを買ってしまったり…これって精神的にいい趣味なのか?
A.趣味は精神的にいいとは言えないものもあると思いますが、好きならそれはそれでありなのではないでしょうか、というのがウ・サギの考えです。ウ・サギは昔とあるスポーツ選手が大好きで応援していましたが、好不調の波が激しく、ちょっと怠慢だったり態度悪いところもあったので、精神的に削られることの方が多かったです。どう考えても精神的にいい趣味ではなかったと思います。(ウ・サギとしては、それらを補っても余りある魅力を感じてはいたのですが)
自分の好きは勝手に湧き上がるものだと思うので、離れたいなら一度離れてみてもいいし、やっぱりやりたくなったら戻ってもいいし・・・精神や金銭が振り回されることは確かにデメリットでも、そこまで心惹かれるものがあることは一つのギフト(才能)だとは感じました。
(補足に趣味の詳細がありましたが)趣味界隈に自分と同じ年代性別の属性が少ないこと、一部の人の態度のせいで世間での評判が良くない場合もあることは、どうにも不便だしちょっと市民権ないしでつらいですよね……。ウ・サギは言っても盛り上がる余地のないマニアックなすごーく好きなものがあり、グッズとかもほぼ無い界隈なので、自分の中でだけ趣味を抱きしめています。
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Q.どうして私は親から離れられないんですか?小学生くらいの時から、親に迷惑をかけたくなくて早めの自立を目指していて、でも自立しようとするとそんなことしなくていい、一生親のお金で暮らせって言われるし、かなり疲れ果てています…。
A.「どうして」という問いはとても興味深いものだとウ・サギは思っています。どうしてという発想は「本来ならこうできるはずなのに」という理想や想定があることで登場すると思うからです。親から離れられない方が普通と言われていたり、できないなら絶対にできないなりの理由があるのだと捉えられる世界なら、「どうして」とすら思わなかったり、「どうして」も自己嫌悪などの伴わない純粋な自己分析の言葉になるような気がします。
話がズレてしまって失礼しました。できないのは、しない方がまだトータルでは負荷が軽いのか、するエネルギーが足りていないか、しないことが実は一つの意思表示なのか、いろいろな説があるとは思います。全然違うかもしれないし、混ざっているかもしれません。でも自分のモヤモヤや引っかかりって本当に大切なことなので、ちゃんと引っかかり続けること、掘り下げてみようとすることは自分を大切にする行為だと思っています。
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Q.死のうって思う自分と死のための行動をするのが怖い自分がいる。
A.ウ・サギは死のうって自分は「楽になりたい、疲れたよ」って自分に近いと思っています。でも死のうと行動をするのは楽じゃないし疲れるので、死にたいと死への行動は意外と仲が悪いというか、逆のことをやろうとしている部分があると思うのです。
死という選択肢以外に、楽になれる方法がすぐに何個かあればいいのにといつも思います。
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Q.「大好きな人と離れなきゃいけないけどどうしたら仲良くなれる?」と質問させてもらった者です。「自分の寂しさや満たされなさで増幅される」という部分にすごく心当たりがあったので、まずは自分を満たしたいと思いました。小さい頃から自信がなくて今は他人に依存しがちなのですが、どうやったら寂しさを自分で満たせるようになるのでしょうか。
A.満たされなさや寂しさで増幅された「好き」の取り扱いは難しいですよね。ウ・サギもわかったような顔(?)で質問回答ではいろいろ言っていますが、自分自身が増幅していた時期に取り扱いが上手だったとはとても言えませんし、どうやって少しずつマシになったかもよくわかっていない部分もあります。
似たようなことで悩んできた仲間と自分の経験から考えると、何か所属感の持てる場所が見つかったりとか、ささやかに役に立った経験とか何かが無理なく続けられた経験とか、「満たされる」「自分に自信がある」というよりは「自分がいてもいいんだな」「まあこんな人間だけどやっていけるかもしれないな」みたいな感覚が見つかっていくのがポイントには感じています。とはいえ最初はそんなものでは満足できないので、寂しさを危うい形で埋めるときもありながら、ふらふらと進んでいく道のりなのだとは思います。
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Q.就労継続支援A型事業所に今月から通いはじめました。サポートしてくださるスタッフさんには質問したり少し話せたりするのですが、同じパートさんには挨拶ぐらいしかできず、距離感に悩んでいます。
A.ウ・サギも距離感についてはあまり得意分野ではないですが、コミュニケーションは技術の問題よりも、相手と話したい・相手のことを知りたいという思いがあるかの部分にポイントがあるのだろうと最近は考えています。だから、この人のことちょっと知りたいなとか、これについて今話したいなとか、自然に自分の心が動いたら挨拶以上の会話をしてみる感じで、距離感みたいなものはあまり考えないくらいが丁度いいのかも…?と思ったりしました。
ちなみに、生きていくためという次元で考えれば、何かしらの形で(誰かに手伝ってもらうでも可)、意思表示ができて、必要な情報のやり取りができれば、それ以上は無くても問題ないというのがウ・サギの考えです。
今月から通い始めたのですね。新しい環境、新しい人間関係・・・ウ・サギはそういった変化に弱めの民なので「お疲れさまです。どうか無理なさらず」と声をかけたくなりました。
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Q.奇声をあげながら追いかけたり急に叫んだりする人がいて怖く、その人は発達障がいがあります。もちろんそうなっちゃうのは仕方ないし、しない人もいるのは分かっています。けど発達障がい関連の記事や人を見てると、わかんないけど怖いです。
A.自分の理解を超えた振る舞いをされたり、追いかけられて怖いと感じるのは自然なことだと思います。実際に怖い経験があったとき、その人の属性ごと怖い対象となるのも、それこそ仕方ないことだとも感じます(例えば他には、男性恐怖とかが該当しますね)。
でも、問題は発達障がいがあるないではなく、その人個人が自分に合った学ぶ機会や、自己コントロールできるような環境が足りていない部分にあるとウ・サギは考えています。というのも、今の社会は発達障がいの人にとって学びづらい環境や、過酷な環境になっていて、もう日々暮らすだけでストレスいっぱいの状態になっている人もいるのです。質問者さんもそのあたりを理解、想像しているから「そうなっちゃうのは仕方ない」という言葉があるのだと思いますが、この記事を読んでいる人が発達障がいについて偏ったイメージを持たないために、ちょっと書かせてもらいました。
発達障がいがあることで生きづらさやストレスを感じている人が多くいる社会であること、そうならない社会づくりを考えていくのは大前提として、同時に「こわい」と感じてしまう人が気持ちを話せる機会も大切だとウ・サギは思っています。追いかけるのはダメにしても、(他の方法で難しいなら)奇声をあげたり急に叫ぶことで自分を落ち着かせるのはありかなとウ・サギは思っていて、ただ、それは周りの人が説明された上で理解できたり、怖いと思ったことを言えたり、お互いの気持ちや事情が尊重されて成り立ってほしいと思っています。
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