Q.生きづらさと結びつきやすい属性を持っていても、本人は人生が好きという人は、私以外にいるのでしょうか。所長たちはそういう人に会ったことはありますか?私はASD、引きこもり、ニート、最終学歴が中卒などの属性を持っています。
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Q.生きづらさと結びつきやすい属性を持っていても、本人は人生が好きという人は、私以外にいるのでしょうか。所長たちはそういう人に会ったことはありますか?私はASD、引きこもり、ニート、最終学歴が中卒などの属性を持っています。
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Q.親に対して屈辱感を感じています。親に対しての罪悪感なら聞いたことがあるし、私も感じることがありますが屈辱感は聞いたことがなく私だけなのかな?と気になっています。
A.なるほど・・・屈辱感ですか。AIに聞いてみたところ「他者によって大いに恥ずかしい思いをさせられ、面目を失ったと感じる感情のことです。相手に屈服させられるなどして自尊心が傷つき、恥ずかしさや悔しさ、無念さを伴います。」と説明されました。
ウ・サギは感じたことがあるだろうか?と振り返ってみたのですが、わりとありました……!相手が親だろうが誰だろうが、相手の言動と、自分自身の個性とのマッチングで、屈辱感を抱くことはありそうな気がします。
相手に「屈服させられる」や「悔しさ」の部分がポイントな気がしていて、それらの感情は、自立心が強いタイプだと湧きやすくて、自立心がそこまで旺盛じゃないタイプだとあまり感じないかもしれないと思いました。相手の言動については、バカにしてくる態度をされたら屈辱は感じやすいとは思いましたが、そこに屈辱ではなく、怒りや憎しみという名前をつける人もいそうだとも感じます。あと屈辱は「恥ずかしい」という感覚が鮮烈かと思うので、屈辱感を抱いていたとしても、それを表明せずに隠す人も多いのかもしれません。
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Q.「本来のその人」って一体何でしょうか?
よくない性質だけ個性とは切り離すなんて、都合のいいことが本当にできるのでしょうか。
所長たちが普段言っている、「よくない行動でも無理にやめさせず背景を分析すべき」という考えとも矛盾する気がします。
A.(補足)所長たちの質問回答配信第22回の質問1「精神疾患や発達障害の治療では、主に『考え方や行動の矯正』を行うと聞きました。じゃあ正しい考え方ってどういうもので、誰の基準で決まるのか疑問です。これを考えるほどに、ニューロダイバーシティという理念も胡散臭く思えてきます。」を見ての質問とのことです
質問と補足を読んでウ・サギが気づいたのは、質問者さんの言っている「認知行動療法」と、ウ・サギ(たち)のイメージしている「認知行動療法」には、何かしらの違いやズレが生じていそうだな、ということです。
これはウ・サギの印象なので間違っていたら申し訳ないですが、質問者さんの言っているもの(実際に経験したものでもあるのかなと想像しています)は医学モデルでの話で、ウ・サギは社会モデル・対話モデルでの運用をされるのは勝手に大前提とした上で話している気がします。
何がよくないものなのかを医療を提供する側が定義し、患者が努力や工夫をしてそれを変えていきましょう、というスタンスで行われるなら、どんな療法だろうとウ・サギは大反対です(残念なことに、実態としてはそういった場合があるのでしょうね……)。ただ、それは認知行動療法という技法の問題ではなく、医療というもの自体や支援者のあり方の問題だと捉えているので、認知行動療法を対象にしたネガティブな気持ちはあまりないです。何がよくないもの・変えたいものかを(そもそもそこに正解もないですが)対話の中で本人が決めて、本人と周囲と双方で歩み寄りや折り合いを探っていくために使う枠組みとして、認知行動を意識して考えてみるのは悪くないよね、と思っています。
ただ、合う人合わない人はいるかと思いますし、ウ・サギ自身が認知行動療法を受けるということだけで考えると、きっと合わないだろうと感じます。社会の常識といわれるものからの圧や合わなさでの傷つきが大きい場合や、もともと思考が発達している場合は、あまり合わず、腹立たしい思いさえする。社会の風潮というよりは特定の誰かとの関係での傷つきが大きい場合や、感覚や感情が優位で思考を伸ばした方が生きやすい場合は、わりと有効・・・?という印象はあります。これはあくまで主観バリバリの仮説ですが。
補足にあった「いつか生きづLABOでこのような問題を話しあえたら、社会の課題を一つ明らかにできそうだと思うのですが」という意見には賛成です!どうしたら安全な話し合いの場になるか、参加したい人たちが参加しやすいツールや運営方法は何か、ああ先に研究員制度を始めるための利用規約を整備しなくては(研究員にならなくても話し合う場はあっていいのですが、まずは前から言ってることをやらなくてはという筋)、そんなうちにやろうやろうと口だけのウ・サギになってしまう・・・と頭も心も忙しくなってきました。
当事者の違和感を出発点に対話を深めていくことは、社会の課題を明らかにしていくための超有効なアプローチだと思っています。
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Q.人間は病気でも治療して治せる
食べ物はちゃんと供給できる
野生動物に襲われる確率はかなり低いのに
野生動物よりなぜくよくよ悩み窮屈そうに見えるんでしょうか?
A.それは、くよくよ悩むということ自体が、生存のためにリソースを全部使う必要がない(つまり、端的に言うと暇がある)から発生する現象というのがまずあるのかなと思いました。あとはそもそも動物と人間の大きな違いとして、人間は概念というものを獲得していて、今目の前のこと以外も考えることができちゃうというのもあると思います。過去を思い出すのも、将来を不安に思うのも、アイデンティティというものに揺らぐのも、比較するのも、概念があって初めて生まれるもので、動物には(現状の仮説としては)ないとされています。
そして困ったことに、一方で面白いことに、人間の考えや生き方に正解は存在しないのですよね・・・。この世界が何なのかを自分で感じ、必要があれば感覚を理論で補強し、自分の欲求と周りの欲求や現実との間で折り合いを探り続け、絶望や閉塞を感じてもどうにか今を生きるための支えを見つけ・・・死ねない間は、揺らぐ自我を抱えてどうにかやっていかないといけません。そのバランスを自分で見つけて取り続けていくことの難しさは、ここまで宗教というものが必要とされてきたことや、時に信じられないような虐殺が起こってしまうことなど、歴史が証明しているとウ・サギは思います。
くよくよ悩むのは(その権利を使いたいかは別として)人間として生まれた特権のようなものだし、全然いいと思いますが、窮屈というのは行き過ぎると怖いようにウ・サギは感じます。だからくよくよをシェアできる、窮屈になりすぎない社会をつくりたいと思っているところです。
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Q.摂食障害を患って、強制入院ギリギリの低体重から一転、お腹パンパンで苦しくても食べ足りない体になってしまいました。太りたくない。でも食べちゃう。獣みたいな自分が大嫌い。どうしたら自分を許せるでしょうか。
A.本当は食べたくないのに食べてしまう、それに苦しむのはあなたが人間であり、傷ついた心を持つからだとカエルは思いました。だから、獣みたいではなく、とても人間らしいと思うところです。すぐに自分を許すことは難しいと思いますが、あなたが「許したい」という願いを持っていることがカエルには伝わってきました。その「願い」だけでカエルはすでに自分を許そうとする一歩を踏み出していると感じました。その一歩をカエルは受け止めたので、あなたもその一歩を受け入れるというのはいかがでしょうか。
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Q.「モチベーションで行動するのは良くない(下がったら行動しなくなるから)」みたいな動画を見つけます。私は、モチベーションで勉強してたりするので、こういうのを見ると自分がすごくだめな人間に思えます。モチベーション任せはやめたほうがいいですか。
A.そんな動画があるんだ!
良くない、ってなんかイヤだね~
*ウ・サギから補足*
世の中では、いろんな人がいろんな勝手なことを言います。それは発信している人にとっては、その時点での真実(だと感じるくらい自信のある考え)なのでしょうが、何が適切かは人や場合によって実にさまざまだとウ・サギは思います。だからモチベーションで行動するのは良くないのか?と考えると、そういう人や場合もあるかもしれないですが、そうじゃない人や場合もあるし、寄り道したり試行錯誤するのもそもそも大切だし、良くないなんてことは全く無いと感じます。あなたはあなた自身のことを知っていて、動画の人はあなたのことを知らないので、自分の思う方ややりやすい方を信じていいとウ・サギは思います。
それにしても、最近は不安を煽るような、これが正解でこれは不正解とでもいうような、主張を強く出すコンテンツが世の中に多いと感じます。ウ・サギの意見も偏っているかもしれませんが、世の中には言い切れるような真実はほとんどないとウ・サギは思っているので、「これは○○だ」とか「こうしないと良くない」とか、言葉の強いものは基本的に疑う姿勢で見ています。
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Q.離れるって何?って最近思っています。親や嫌いな人からは離れたい!って思うけど、離れてそこで終わりじゃないですよね…?大きな決断をするのにその先も何かが続くのは、少し嫌かもしれません…。終わりたい…。
A.離れてそこで終わりじゃない、は確かにそうですね。むしろ離れてそこからが本当の始まり、という感覚がウ・サギはあります。でも「離れよう」と言われたら「離れたら解決する」といったニュアンスに聞こえるかもなあ・・・そうだとしたら疑問や抵抗を感じるのも至極まっとうだな・・・と、質問を読んで考えさせられました。
(離れた後にも支援を続けるタイプの支援者の想定で話しますね)離れるのは、生きづらい側がすぐ楽になる!という話ではなく、サポートする側が手助けしやすくなるというポイントが大きいのかもしれません。だからちょっとぐいぐいと、離れることをおすすめしたくなってしまう気がします。でも実際のところは、何かをして劇的に全てが解決することはきっとほとんどなくて、つらい疲れた、もう少し頑張ってみるか、いややっぱりもう無理かも・・・といった繰り返しの中で、味方や使える資源が少しずつ増えていって、まあ生きていてもいいか、くらいに落ち着いていくイメージはあります。
周りができるのは、その人自身の「生きるのが楽になりたい」という思い、自分で自分を助けてみようとする意欲や力を、ちょっとだけ支えたり、せめて萎えたりしないように一緒に考えることなのだろうか・・・などとも考えさせられました。
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Q.最近ふと、小学生の頃に友人から性被害に遭っていたなぁと思い出しました。今まで思い出しても自分が悪だと忘れようと責めてきましたがなぜそう思ってしまったのでしょうか。日々死にたいと思う要因の一つにはこの経験が入っているのでしょうか。
A.大きな心の傷、とくに性被害について、「自分が悪い」と罪悪感を抱くケースはウ・サギとしてはわりとよく聞く話です。ウ・サギは専門家ではないので、細かなメカニズムや心理までは解説できないのですが、人間の心の機能として、どう受け止めていいかわからない、受け止めきれないショックを「自分のせい」と意味づけて抑え込む、というのは一つの防衛本能なのだろうとは感じています。
ただ、それは誰かに頼れないときに自分を守るための方法で、本当に自分を守るためには、気持ちを誰かに受け止めてもらう中で、中立で自分に優しい意味づけを見つけていく必要があるようにも思います。
日々死にたいと思う要因に性被害の経験がどれくらい入っているかはわかりませんが、死にたいという感情は、今目の前のことだけでなく、これまでの経験の影響を受けている場合が多いとウ・サギは考えています。言葉にできない、気づけないから、全部ひっくるめて「死にたい」という感情に結晶化してしまう、というようなイメージです。
今のあなたは過去自分に起こったつらい出来事を捉え直せそうな(そのための安全や余力がなんとか確保された)タイミングがきたのかも…?とウ・サギは感じました。それはどんな出来事のどんなダメージについてのことでも、自分の「死にたい」のサイズを小さくすることにつながるとウ・サギは感じています。
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Q.恵まれて何不自由なく生活しているのに死にたい・消えたい、学校に行きたくないと感じてしまう私はおかしい?
A.何もおかしくないとウ・サギは思います。例えば、物質的に恵まれていることや、愛されて育っていることや、どんな素晴らしいと思われる生活でも、100%生きやすさを保証するものにならないというのがウ・サギの考えです。
でもそれ以前の話として、補足を読んだところ、あなたの「恵まれて何不自由なく生活している」という認識は、ウ・サギの思う「恵まれている」とは違いがあると思いました。
これは、この質問回答を読んでいる全員にも伝えたくて書くのですが、「自分は恵まれているのに…」と考えるのは、
①身体の安全が今も昔も保障されていた(暴力を受けていない)
②自分の好き・嫌い、やりたい・やりたくないを遠慮なく言える(言葉や、または雰囲気で、自由な発言を制限されていない)
を③行きたくない場所やいたくない場所があったとき、そこに離れる選択をするのが難しくない(生き方、暮らし方がいわゆる「普通」から外れているものも、それを否定されずむしろ応援してもらえる)
少なくとも、この3つを満たしてからにしませんか?と、ウ・サギは提案したいです。
このどれか1つでも守られていないなら、安心して自分が自分らしく生きられていないとウ・サギは思うので、それは十分死にたい気持ちにつながるつらさとなると考えています。もちろん、この3つを満たしている場合だって、死にたいと深刻に思うこともあります。
あと、そもそも、学校はあまり行きたいと思える場所ではないとウ・サギは思っています。だから学校に行きたくないのも全然おかしくなく、行かない子にも何も悪い点や問題はなく、行きたいと思えないような学校になってしまっている、という点に大人たちは向き合ってほしい・・・とずっと考えています。
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Q.最近になってやっと、親への愚痴を人に言えるようになって自分にも嫌なことを嫌と思う権利があるのかも…とうっすら思えるようになりました。自分の納得がいくまで、あれが嫌、これが嫌とかを人に言ってもいいのでしょうか?
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