Q.承認欲求に支配されています。周りからどう見られるのか、肯定的な評価を得られるか、そんなことばっかりが気になります。どうして私は、こんなにも承認に飢えているのでしょうか。
A.否定が多い環境にいると承認欲求が高くなる気がやみーペンはしてるよ!承認を受けれる機会が多かったら特別なことじゃないからあんまり求めなくてすむ気がするんだよね。
Q.承認欲求に支配されています。周りからどう見られるのか、肯定的な評価を得られるか、そんなことばっかりが気になります。どうして私は、こんなにも承認に飢えているのでしょうか。
A.否定が多い環境にいると承認欲求が高くなる気がやみーペンはしてるよ!承認を受けれる機会が多かったら特別なことじゃないからあんまり求めなくてすむ気がするんだよね。
Q.一緒に帰ろと言ったとき、その人は「技術でまだ終わってないのあるから帰れない」と言われて、自分は他の人と帰ろうとしたとき玄関から出てきたのは、誘ったけど断られた人でそのひとは他の人と帰っていました。友達ってなんなんでしょうか。
A.カエルは基本的に、誘うことも自由、断ることも自由であり、その自由が発揮できるのが対等な人間関係だと理解しています。友達が何なのかわかりませんが、自由意思を尊重しあうという基本に基づくと、断ることのできる関係は悪い関係ではないかと思います。
ただ、「なんなの?」とモヤモヤが残ることも理解できるので、次なる自由意思としては「この前、技術で帰れないって言ってたけど、他の人と帰ったよね。どうして?」と尋ねる自由はありますね。言わない自由もあるし、もうその人とは距離を置くという自由もあなたにはあります。
いずれにせよ、考える機会になったことは確かだと感じました。
Q.後悔するとわかっているのにどうしてやっちゃうんだろう?気分が悪くなるまでお菓子を食べたり、毛を抜いたり、何かをサボったり、そのあとには必ず後悔に襲われてつらい。つらくなるのにどうしてそんなことしちゃうんだろう。
A.それよりももっとつらいことが深いところにあるからだとカエルは思います。おそらく、自分を守ろうとしているからです。
そのつらさは、自分では気づいていないかもしれないし、ひょっとしたら忘れてしまったかもしれないし、何が嫌なのかもよくわからないことかもしれません。
後悔するとわかってるのにやっちゃうことがあるのは、それなりの理由があるからです。カエルとしては隠れたつらさについて一緒に解明する機会を持ちたいと思いました。
Q.大学受験を乗り越えたこと、引っ越しの手続きなどを自分で調べて1人でしたこと、過去のつらい記憶と闘ったことを、褒めてほしいです。できればこれからを応援してほしいです。誰かにそう思うのは、自立できていないからでしょうか。
A.「自立とは依存先を増やすこと」という言葉があるのですが、ウ・サギもそう思っていて、自立=頼らないではなく「頼り上手になること」だと思っています。
だから、褒めてほしいなら、褒めてくれそう&あなたを褒めることを負担に感じない相手に、褒めてほしい!と言えるようになるのが自立だと思います。(相手のチョイスと伝え方がどんどん洗練されていくとなお良し、というイメージですが、褒めるだけでいいならわりと誰相手でもいけそうです)
大学受験、引っ越しの手続き、お疲れ様でした。過去のつらい記憶との闘いも、ウ・サギも自分なりに経験しているので、同志として健闘をたたえたいです。
生きづLABOで、お疲れ様パーティを開きたい気持ちになりました。
Q.何かの加害者を自分とは縁遠い人物とするのではなく、自分の生活の延長線上に加害があると考えられると、意図せず行なっている加害に気づく事ができるのではと思います。ただ、加害に至る理由の解像度が粗いと的外れな自己否定で終わってしまうと思いました。
A.(注:Q.加害者なら苦しめていいという風潮が苦手ですの記事を読んでの質問とのことです)
そうなのですよね・・・想像し理解することが大切というのはわかっても、解像度が一定以上にならないとズレてしまうので、じゃあどうすれば解像度は上げられるのか?というのは延々悩んでいるところです。
色々な人に出会うこと、話を聞くこと、そして自分の感じていることを話すこと。多様なものに触れるのと、率直に語る場をもつのがポイントだとウ・サギは感じているのですが、今の社会は多様性の乏しいコミュニティで、仮面をかぶって話す機会の方が多い気がするので、自己理解も他者理解も難しいのかなと感じています。
悩ましいです。
Q.この社会の前提って理不尽じゃないですか?
A.なるほど、確かに理不尽だと思います。ただ、カエルのニュアンスとしては今の日本社会においては、社会的正義が機能不全を起こしていると考えています。
つまり、社会の前提が理不尽というよりも、人間が野生の動物界の前提(弱肉強食であり、弱い者は淘汰されていく)ではなく、お互いに権利というものを認め、自由と平等を大事にしようと決めたのにもかかわらず、そのための前提が不十分なのだろうと思っています。
いろいろな事情がある人たちがいて、お互いに事情を理解しあうことは実はとても難しく、「差別はいけない」というようなキャンペーン的なやり方ではお互いに理解しあうことはできないとカエルは考えています。じゃあ、何が必要かというと…とても地味ですがいろいろな事情について、お互いの事情について出し合い、話し合い、歩み寄るプロセスしかないのかなと思っています。ただ、そうした地道な歩み寄りは力の強いものが自分の持っている力をわきまえて、聞く耳を持つ必要があります。なぜなら、力関係があると、弱い側の声や事情はないものになることが多いからです。そして、理不尽色が強くなっていきます。
だから、理不尽のリアルが過不足なく正しく理解される機会がとても大切だとカエルは考えます。みんなで事例を出し合えたらと思います。
Q.子供の頃に戻りたいなぁと思う気持ちが、最近大きくなっています。こういう気持ちって、一体どんなところから来ているのでしょうか。
A.ウ・サギも最近その気持ちが大きくなってきているので、仲間が見つかってちょっと嬉しくなっています。
ウ・サギの場合はですが、自分が子どもの頃と比べて(気持ちが)不自由になってしまった自分、そしてそれが完全には戻ることのないことに、気づいてしまったからなのかな…と感じています。つまり、今の自分の未練や望みや痛みと向き合える力が出てきたときに、子どもの頃に戻りたくなるのではないか?というのがウ・サギの説です。だからそれは主観としては良い気分じゃなくても、本質的には自分という存在が回復してきた証なのだと捉えています。
とはいえあくまでこれはウ・サギ説で、まだまだ不完全な仮説かと思うので、他の人の考察も聞いてみたいです。
Q.授業中寝ちゃいけないとかいわれるけれど、学ぶ権利をどう使うかは子どもの自由だから、周りの学びたい子供たちの邪魔をしなければ何をしていても良い。それが私の意見なんですけど、どう思いますか。
A.その通りだと思います。授業中に寝ちゃいけないということもカエルとしては必ずしもそうではないと思えます。どうしても寝ちゃうときや、寝なければならないときもあると思いし、寝るか授業を受けるかは周囲の権利を著しく害さない限り、選択してもよいと思います。
ただ、授業をやる教員の立場としては、寝ている人を見ながら授業をするのはなかなかしんどいことではあるので、授業を受けないのならどこかに行って寝てほしいという気持ちはあります。(カエルも経験があるので、ちょっとそんな事情も理解してもらえるとありがたいです)
Q.先生が、「これから動画を見せるけど、君たちにこういう思いを持ってほしいんだ」とか言います。でも私たちがそれを見て何を感じて何を学ぶか、学ぶか学ばないかって私たちの自由じゃないんですか。
A.ウ・サギも、120%それに同意です。今首がもげるほど頷いています。
何を感じ学ぶかは、その人の自由だし、押しつけられた学びは本当の意味で学びではなく、調教や洗脳に近いものだと思っています。
ちなみに、ウ・サギはおおむね学校というものは好きじゃないですが、「こういうのは正しくないな」「ちょっと違うな」という例をいっぱい見れた部分は学びになったと感じています。
Q.不幸せでも生きてゆく方法ってなにかあると思いますか?辛い状態が長く続いていて、正直生きるのが苦痛なのですが、楽に生きるにはどうすればよいのでしょう。幸せに生きるか、死ぬかのどちらかなのかな。
A.幸せじゃなくても、死にたいままでも、それなりに平穏に生きていくことはできる(ウ・サギはその状態なので)とは思います。
でも、「不幸せ」「辛い状態」というのは、幸せじゃないという次元ではなく、積極的に苦痛のあるものかと想像しています。そして、苦痛は周り(身近な人、周りの価値観、社会のあり方)との関係性の中で生じるものであり、辛い状態=環境が合わない状態、という側面が強いと思っているのですが、あなたはどうでしょうか。相手が悪いわけでないとしても、この人と関わっても、ここにいても、頑張るだけ不幸になっちゃうな・・・という場所はあるとウ・サギは感じています。
自分を変えられる幅は小さいですが、付き合う人と環境は、理論上は大いに変える幅があります。
どこで生きるかの選択肢が手軽にたくさんあったら、生きるか死ぬかではなく、さあ楽に生きれそうな場所を探しに行こう、という話になる気がします。そんな世界になってほしいです……。