Q.こんな働いたら負けみたいな世界で、なんで今日もみんな文句言わずに働いてるの?
誰も怒り出さないのが不思議でたまりません。
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Q.自分は、誰も見ない前提の場所(紙か画面か等は問わず)で思いを文章化したいとは思えないしできないのですが、
所長室の質問内容の欄で思いを文章化するのは、時にやり始めると没頭します。
見てもらえる前提だからなのかな?不思議です。どう思いますか?
A.これはウ・サギにとっては超わかりみですね。実際に見てもらえるか、伝えられるかは別にして、誰かに見てもらうというイメージがもてないと、自己表現は湧きづらいとウ・サギは思っています。
ウ・サギは病んだ気持ちも含めて思いをそのまま書くブログを昔公開でやっていたのですが、誰にも紹介していなくて読者がいなくても(誰にも紹介しませんでした)、公開じゃないと意味がない、という感覚がありました。自分の手元だけで紙やスマホで何か書いてるときも、実際に見てもらうことは絶対しないのに、宛先に誰か特定の(自分のことをわかってくれる見込みのありそうな)相手をイメージはしてます。わかってくれそうな相手が見つかると、これまで全然意識に浮かんでいなかった思いが出てきたり、それが言葉になったり・・・という経験も何度もありました。
だから表現というのは、受け取ってくれる存在が(目の前にいなくても、たとえ想像の中でも)いることで生まれるもので、育っていくものだとウ・サギは感じています。だから生きづLABOが受け取り手として信頼されているように感じて、勝手に嬉しくもなりました。
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Q.死にたいと簡単に言うのはいけないと言うけれど、どの程度なら死にたいと言っていいのでしょうか?そう言う人は、死にたい人の感情を大丈夫だと決めつけて、蔑ろにして、後回しにしているだけだと思います。
A.どこの誰がそんなことを言っているのかわかりませんが(そういうことを言ってくる風潮が社会にあるのはわかります)、気持ちを言うのは自由だとウ・サギは思います。それが「簡単に」言っているかなんて、他人から評価できるものではないですし、もし死にたいと感じたことのない人がそんなことを言っているなら、あなたの言うように、死にたい人の感情を後回しにしている行為だと思います。
ただ、大丈夫だと決めつけてるとか、蔑ろにしているという感覚ではたぶんなく、単純に「そんなことを言われてもどうしたらいいかわからない」「私の心を動揺させないでくれ」といった防衛反応みたいなものかなとウ・サギは思っています。(それは結果的には、蔑ろにする行為ではあるのですが)
どの程度なら死にたいと言っていいのでしょうか?という問いに答えると、どの程度でも言っていいとウ・サギは思います。でも、相手のキャパや経験値が不足していると、死にたいと言っただけこっちが傷つく場合があるので、言って自分が損をしそうなら自分にとって「言わない方がいい」ときはあるかもしれません。
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Q.所長たちってネガティブ(自傷、死にたい等)の質問だけじゃなくて、楽しい(食べ物等)の質問も受け付けてるの?他のこういう感じのサイトは楽しい質問とか受付けてないからなんで?
A.(世間一般でいう)ネガティブなことも、楽しいことも、我々が生きていくうえでどちらも大切なテーマだと思っているからですよ。両者はつながっていて、どちらも研究所にとって重要な研究素材なのです。ちなみに、カエル的にはネガティブと思われるテーマにこそ多くの真実が隠されていると思っているところはあるのですが、楽しいと感じることの中にも生きることへの本質的が多く含まれていて、これからもどちらとも考えていきたいですね。
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Q.部活に真剣になる人について。下に母との会話を載せました。心に引っ掛かりを覚えて、なんかモヤモヤします。なにが誰がおかしいんでしょうか。
A.会話が見えないと解説が難しいので、補足の内容をここに書かせてもらいますね。
母:部活に一生懸命になって学業が疎かになって困ってる親がいるらしいよ。せっかく進学校に入ったのにって
私:別に部活頑張ったってよくない?それはそれで
母:いいよ?あなたの人生だから
勉強しなくたって別にいいよ?
だったら大学に行く必要なんかないよね
Fランに行くなら専門学校で職を身につけたほうがまだマシだよ
私:、、、、、、
ウ・サギが気になったのは、とりあえず以下3点です。
①勉強を他の何より大切なものだと強く信じていそうな母の価値観
②その価値観を自分以外の人にも押しつける姿勢
③押しつける気満々にもかかわらず、「あなたの人生だから」と表面的には自由を持ち出してくる矛盾
他にも細かいツッコミはいくつか出来そうですが、自分の価値観を正しいと強固に思い、それを察させるような圧で押しつけるのは、多様な考えがあること、他の人にも他の人の価値観や生き方があることを軽視しているとウ・サギは感じます。ウ・サギのあり方も否定されているように感じてモヤモヤしますし、それを親→子という力関係がある中でやるのは本当にやめてほしいところです……。
ただ、逆にウ・サギの考えにモヤモヤする人もいるかと思います。だからどの考えが正しいみたいな話ではなく、大人は子どもに対して(立場の強い人は立場の弱い人に対して)モヤモヤを言ってもらえるような関係、自分と合わない考えだとしてもどうしてその考えをするのかを聞いたり想像する姿勢をもつことが、きっと大切なのだとウ・サギは思います。だからあなたがモヤモヤを伝えても受けつけなさそうな雰囲気が母から感じられるのが、もしかしたら一番のモヤモヤかもしれないですね。
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Q.学校で一人称が僕や俺などになったりその一人称に合った口調になるのですが、何年か前に「もう少し、女の子らしい言葉づかいをしなさい」と親に言われました。高校生で一人称が僕や俺ってやっぱおかしいですか?直すべきですか?直し方はありますか?
A.一人称はその人のアイデンティティの大切な表現なので、自分が使いたいものを思う存分使ってください。周囲の頭の固い大人は「〇〇らしく」などというもっともらしい理由をつけて、改善を求めることがありますが、それに従う義務はありません。あくまでも、親なりの一つの意見として言っているにすぎないと理解するのが妥当だろうと思います。
多くの人は何となく社会規範に従って同じような一人称を使いますが、自分がもっともしっくりくる表現をしたらいいのだとカエルは思います。日々変わったっていいと思いますし、気分や状況によって言いたい言葉は違うと思います。
もしも、周囲に「それは違う」とか「おかしい」という人がいても、その人の常識や感覚を押し付けているにすぎないとカエルは思うのです。自分のことをどう呼ぶかは自分の問題であり、自分以外の人は一見解を伝えることはできても、強制することはできません。
そして、そう呼ぶことにいちいち理由もないのかなと思います。そう呼びたいからということでいいと思います。だから、一人称を直す必要はないし、直さなくてもいいと思います。これを書いていて、いろんな人がそれぞれの一人称を使ったら、もう少し生きやすい世の中になりそうだ!とカエルは少しワクワクしたので、思いのままに表現することを応援したいです。カエルも自分のことを「カエル」と呼ぶととても自分らしくなった気持ちがしてホッとします。
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Q.よく、「生きづLABOで〇〇しよう!」と言ってるけど、本当にするんですか?そういう機会があればいいなぁというだけで、やる予定はないのですか?口先だけなのかなと思ってしまって・・・すみません絶賛人間不信で・・・
A.図星のご指摘、ありがとうございます。おっしゃる通り、まだやろうといったことはできていない状況なので、ごもっともな意見だと思いました。絶賛人間(キャラ)不信ではなくても、「やるっていったこと、やってないじゃん!」という権利はあると思います。カエル的には期待をされているからこその質問だと勝手にポジティブに受け取りました。
そのうえでこの先の予定をお伝えすると、今、質問箱を続けながらユーザーのニーズリサーチを進めつつ、実は水面下で研究員制度の運用の準備をしています。7月ごろには研究員活動がスタートしこれまで「やってみよう」言ってみた内容についても取り扱える予定となっています。(こう宣言して、自分を追い詰めるカエルです)
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Q.リスカの傷とか、ODした後の具合悪さがあるから頑張れる。これって変?
A.変じゃないと思う!やみーペンも、シャワータイムでリスカしたことを感じられる時間があるからリスカしてる時期あった気がする🤔
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Q.生きかたカエルさんが「障害」ではなく「障がい」と使う理由は何ですか?他の質問をみて、質問者の方が「障害」と使っていても「障がい」に置き換えていたので、どういう意図があるのか気になりました。ちなみに、私はどっちでもいいと思っています。
A.よく見ていますね。カエルのこだわりに気づいてもらえてうれしいです。
「害」は「邪魔をする」「そこなう」という具合に、よくない意味が全面的にあります。障害者は特定の人たちの総称になりますが、人の総称として「害」という漢字を使うことで、当事者の方たちが嫌な気持ちになるという意見が多くあります。そこで、一般的に障がいのある人たちが、「害がある人」という意味合いでとらえられることのないように、「害」を「がい」にしていこうとする動きがあり、カエルもそれに賛同した結果、ひらがなにしたわけです。
似たようなことで「こども」は「子ども」であって、「子供」とは書かないようにしています。「供」はお供(主人に従う存在)としての意味があり、子どもを従属的な存在として理解される恐れがあると思っているので、「子ども」と書くようにしています。カエルも結構どっちでもいい派的なところはありましたが、いろいろな社会の実情を知っていくと、自分にとってはどちらでもいい、どうでもいいと思っていたことが他の人たちにとってとんでもなくどうでもよくないこともあるので、少しずつアンテナを張るようにしています(まだまだ全然足りないと思いますが)。
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Q.どうして、多くの支援者は、すぐに代替行為をするように言うのですか?あなたの衝動や感情は、腕を赤ペンで塗るくらいの簡単な行為で収まるものだから、リスカなんて大げさなことしなくていいと思われているように感じます。
A.多くの支援者がそうやって言うのは、代替行為の提案が定番になっているのもありますが、強い刺激を入れなくては抑えられないほどの激しい衝動や感情を知らないから、というのが一番の理由だとウ・サギは感じます。支援者にもあの衝動や感情を体験してもらえたら、色々と簡単に言えなくなるだろうし、それと日々闘っている私たちのことをリスペクトしてくれるはずなのに…としんどかった頃のウ・サギはよく思っていました。ウ・サギはリスカはしませんでしたが、支援者が提案するような、平和で健康的な行為で発散することはできるわけない…!という感覚はありました。
でも、代替行為をするという発想も知らない人もいれば、代替行為が実際に役立つ人もいるのも事実だと思います。だから代替行為の話題を支援者が出すこと自体は、きっとそこまで問題はなくて、「すぐに」代替行為をするように言うのが問題なのだと思っています。日本では、先生は生徒を教える、大人は子どもを導く、みたいに「立場が上の人がアドバイスする」風習が強く、対等に対話する、まずは話を聞いてよく想像する、みたいな習慣があまり身についていない大人も多いのかもしれません。
ウ・サギもそうならないように気をつけないと・・・と思うとともに、あなたのその声を、支援者に届けたいと強く思いました。
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