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Q.最近肥満症の広告が多くて嫌。生き方は自由だと思うんだけど、全員健康じゃなきゃ許されない?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.最近、肥満症の広告が多くてちょっと嫌な気分。BMI25を超えたら治療が必要なんだって。
好きなだけ食べたり、健康以外を大事にする生き方も自由だと思ってたんだけど、だめ?全員スリムで健康でなければ生きるのも許されない?何のために...?

A.補足の内容も含めて実にまっとうな主張だと感じて、ひたすらにうんうんと頷いています。最近は肥満症についての広告なんて増えているのですね…。ウ・サギは広告を見る機会が少ないのですが、毛穴がどうとか、有名大学への合格率がどうとか、ああいうのは見る度に気持ちが滅入るものがあります。まず「こういうのが正しい」「良い」という価値観ありきで、話が始まっているのが怖いです……。
人間は多かれ少なかれ不健康に生きているので、人生においてどの健康をどれほど優先するかは、個人の自由だとウ・サギは思っています。肥満にならないように意識して、自分の楽しみや自由を過度に犠牲にするなら、それもそれで心が不健康だとも感じます。
公共の福祉に反しない限りは、どんな生き方ももう本当に自由だとウ・サギは思います。スリムじゃなくても健康じゃなくても、それを他の誰かにだめと言われる筋合いはないと、ウ・サギは声を大にして言いたいです!

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update 2025/12/3
Q.「Q.医療の現状からニューロダイバーシティという理念も胡散臭く思う」の一発言に反論します
この記事の担当 生きかたカエル

Q.「Q.医療の現状からニューロダイバーシティという理念も胡散臭く思う
の、生きかたカエルさんの言った、動画内の一発言に反論します。
「社会が悪い」がおかしい言葉とは私は思いません。
切実なつらい気持ちから出る言葉だと私は想像するからです。

誰もが人や人以外の命の犠牲や支えで生きているのは確かだと私は思います。それでも、「社会が悪い」という言葉を言う方は、実際に社会の誰かや何かに苦しめられているか、仮にそうでなかったとしても、切実な苦しさを抱えていると、私は想像します。その方が、社会の犠牲や支えで生きている部分があれど、社会に苦しめられていると感じている以上、「社会が悪い」という言葉を言うことは、私は至極真っ当なことだと思います。私の反論に対して、生きかたカエルさんは、どう思いますか?

A.それはカエルの発言の意図が正しく伝わっていないので、カエルの意見への反論ではないのかなと思います。カエルが表現したのは、権限や力のある立場の人が自分のことを棚に上げて「社会が悪い」と言ってしまうことを指して言いました。
カエルは「社会が悪い」という言葉そのものがおかしいとは思っていません。今社会の中に多くある生きづらさのほとんどは社会的な問題だと思うので、社会が悪いという課題意識は重要だと思います。ただ、「社会」と「個人」が敵対関係にあるのではなく、どんな個人も社会の一部であり「社会が悪い」という言葉を言うのなら、その責任の一端が自分にもあるという自覚のもとに使うべきだという意見を伝えました。そして、社会的に強い立場の人ほどその責任は重く、より簡単に使うべきではないと思っています。逆に社会的に弱い立場の人には責任は少ないと思うので、比較的、率直に大きな声で言うのは自然なことかなと思います。

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update 2025/12/3
Q.支援者に身体接触してしまうことは“良くないこと”ですか。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.支援者に身体接触してしまうことは“良くないこと”ですか。
支援者を不快にさせるためじゃなくて、支援者と安心して過ごすためとか、支援者に気持ちを伝えたいときに支援者の身体に触れます。
その頻度は毎回です。

A.これは対話が必要な案件だとカエルは思いました。支援者の方もいろいろな人がいるので、接触されても全然かまわないと思う人もいれば、とても苦手な人もいます。人と人との関係なので、自分の希望と相手の希望が折り合わないと成立しませんし、折り合えば成立することがあります。
合理的配慮や意思決定支援に関係する問題だと思うので、もっとも自分のことをわかってくれそうな人に手伝ってもらって、
①身体接触が何のために必要なのか、それ以外の方法はないのか
②どのような接触や頻度、相手ならいいのか、悪いのか
という接触する場合の基準を検討するのが良いかと思います。
具体的なイメージをカエルが支援者だったら…という想定でしてみると、カエルは人に触られることがとても苦手なのですが、誰かのサポートをする際にその人がどのような必要性があって、どのような目的でどこをどのように触るのかという事前の協議があれば、大丈夫な気がします。
逆にそうした話し合いの機会がないまま、触られるとかなりびっくりして、サポートすることに抵抗感をもってしまい、気まずくなりそうです。または、何度も触れた場合につい一方的に「私は触られるのが嫌なのでやめてください」と言ってしまうかもしれないと思いました。だから、このように「私はこうしてもらいたいです」と提案することに大きな意味があると思いました。
合理的配慮とは困っている当事者が「こうしてもらいたいです」という申し出を受けて始まることなので、今回の質問はとてもありがたいと思いました。

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update 2025/12/2
Q.親の実名を出さずに「親に○○されてつらかった」などネットに投稿するのは良くないこと?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.親の実名は決して出さずに
「親に〇〇されて、私は、つらかった」
「私の親は過保護だ、過干渉だ」
「私の親は毒親だ」
ということをネットに投稿するのは
親への悪口でしかないのでしょうか?
良くないことなのでしょうか?
酷いことなのでしょうか?

A.世間が何を「良くないこと」とするかは時代によって変わるものですし、良くないことは全て禁止すべきか?というのも難しいところですが、そういう哲学的な話は置いておいて、親の実名を出さずにネットに親へのネガティブな感情を投稿することの問題点を考えてみますね。
結論から言えば、ウ・サギとしては問題あるとは思えませんでした。身体や生命を脅かしたり、強い立場の人が弱い立場の人を抑圧したり、実名でバッシングする等他の不特定多数の悪意が向くようにする行動は酷いことに該当すると思いますが、匿名で親(自分より強い立場)の人への愚痴や、つらかった気持ちを書くことは、ウ・サギ基準では酷いことには当てはまりません。
ただし「こんなことは絶対的に誰がどう見ても酷いことです」みたいことじゃなくても、相手にとっては酷い(と感じる)ことであるときはあります。自分と相手では見えてるものや感じることが違うので、「自分側の見えているものが絶対真実で、あなたの方が間違っている!」という論調でぶつかると、お互いにダメージを負うかもしれません。といっても、じゃあお互い様だよねというのも違って、どう感じたかの聞き役になって受け止める役割は、まずは強い側の方にあるとウ・サギは思っています。
ネットに親へのネガティブな投稿をすることについては、親にとっては酷いことに感じられる場合はあると思います。だからといって、親へのネガティブな投稿をするのが許されないとはウ・サギは全然思わなくて、質問者さん自身が自分の傷ついた気持ちと、親が傷ついた気持ちの、どちらを大切にしたいかで決めていいのかなと思いました。「私の親は毒親だ」などと思うのは自分の自由で、誰にもそれを責める権利も、制限する権利もありません。もしネットへの投稿やその他行動を我慢するにしても、自分の気持ちを否定することはしないでいい、しない方がいいとは、ウ・サギは強調しておきますね。

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update 2025/12/2
Q.最近職場に来た警備員がかわいくて対抗心を燃やしている(笑)なんで対抗しちゃうのか…
この記事の担当 やみーペン

Q.最近職場にやって来た警備員がかわいくて、こっちも負けてられん!と対抗心燃やしてます(笑) なんで対抗しちゃうんだろう…

A.なんでも対抗心が湧くタイプ…??やみーペンはあんまり対抗心とか湧く方じゃないけど、自分の方が上手くできる!って思った時には張り合って奪っちゃうかも??そういうこと…??

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update 2025/12/2
Q.虐待されていると友達から相談を受けたという質問の回答が冷たく感じます
この記事の担当 ウ・サギ

Q.虐待されていると友達から相談を受けたという質問の回答が冷たく感じます。
子供に自分の身は自分で守れと強いるのは酷では無いですか。
私も過去に虐待を受けてることを友達に話したことがありますが、もっと持ちつ持たれつ精神になってみてはどうですか。

A.読み返して、表現に至らない点があったと反省しました。まだ至らない点もあるかと思いますが、この質問を受けて、回答はすぐ修正させてもらいました。
気持ちや意図としては、子どもに自分の身は自分で守れと言うつもりはまったくありませんでした。
・「子ども同士で」「友達として」できることを考えると、解決について責任を感じすぎない方が、質問者さんが継続的に友達の支えになることができるのではないか
・暴力抑圧被害からは誰しも守られるべきで、助けになるためにやれることをやるのは大前提として、気持ちの面で「助けよう」「助けてあげないと」というイメージは実はうまくいきづらくて、「本人の自分を助けようとする力をサポートする」「協力する」というイメージの方がいいとウ・サギは感じている
・子ども同士であれば話を聞くだけでまずは十分で、解決へのアプローチで考えれば、どの大人や相談機関に相談してみるのがいいか一緒に考えるのがいいのではないか
といったことを書きたいと思っての記事だったのですが、全然きちんと表現できていなかったです。質問ありがとうございます。

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update 2025/12/2
Q.最近脂物や味濃いものが食べたくなくなってきた。これは心の病気?単に栄養足りてるだけ?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.最近、脂物(コロッケ、トンカツ、エビフライなど)、味濃いもの(タルタル、クリームなど)が食べたくなくなってきた。心の病気?それとも単に栄養足りてるだけかな?

A.ウ・サギは好きな食べ物でも食べたいシーズンと全然食べたくないシーズンがあるので、第一印象としては、あまり心配なことには感じませんでした。納豆や冷奴が一番極端で、数カ月に1回ブームがきて1週間くらいは頻度高く食べたら、また全く食べないシーズンに戻ります。ただ、脂物や味の濃いものは消化の負担がかかるという点があるので、もしかしたら胃の調子などで今そういったものを受けつけるのが難しくなっていて、「食べたくない」という感覚が生じてるかもしれません。
あとは年齢や生活習慣によっても食べたい物は全然変わるので、何かが食べたくないことや実際に食べないことについては、比較的自然な現象だとウ・サギは感じます。まずはゆったり構えて、もし他の変化や不調も現れてくるようなら、その変化について分析するくらいの心構えでいるのはどうでしょうか。

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update 2025/11/30
Q.医療の現状からニューロダイバーシティという理念も胡散臭く思う
この記事の担当 所長室

Q.精神疾患や発達障害の治療では、主に「考え方や行動の矯正」を行うと聞きました。じゃあ正しい考え方ってどういうもので、誰の基準で決まるのか疑問です。これを考えるほどに、ニューロダイバーシティという理念も胡散臭く思えてきます。

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update 2025/11/29
Q.「メンヘラ」という言葉が生まれた頃は差別的なニュアンスでは無かったように記憶している
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「メンヘラ」という言葉が生まれた頃は精神科医、心理職、当事者を幅広く含む精神疾患と闘う人達のようなニュアンスで差別的では無かったように記憶しているのですが、いつ頃の時期から差別的に使われるようになってしまったのか気になっています。

A.この配信での「Q.私は「メンヘラ」という言葉は、差別用語に感じます(以下略)」を見ての質問ですね。ウ・サギは歴史については無知だったので、情報ありがとうございます。
言葉は、誰がどう使うかによって、時代の移り変わりによって、意味合いやニュアンスが変化していくものですよね…。差別的に使われているか、そうではないフラットなものとしてあるかは、コミュニティによっても変わると思います。ウ・サギの周りはメンヘラを差別したり軽んじたりする風潮が全くないので、ウ・サギはメンヘラを名乗ることも時々します。
属性についての表現は、周りが「あの人は○○だ」と勝手にカテゴライズして、それだけでわかったようにああだこうだ言い始めると、よろしくないことが起こっていくように思います。ウ・サギが初めてメンヘラという言葉を見たのは、ネットでの「彼女がとんでもないメンヘラだった」みたいな男性視点の話だった記憶があるので、そうやって周りが使うようになって、差別的な表現や不適切な理解につながりかねないものになっていったのでしょうかね……。抑圧されている側が自分の苦しさに名前をつけたり、その言葉を使って自分のことを語るのは大切だと思うのですが、抑圧している側がその言葉を好き勝手に使って語るのは、とても暴力的なことなのだろうとは感じます。

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update 2025/11/28
Q.どうしても働きたいと思えない人は、死ぬしかないのでしょうか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.生活保護は、
働けるのに働かない人は受給できないといった感じのことを、
良くないことですが、
中古本店で立ち読みした生活保護に関する本で見ました。

では、
どうしても働きたいと思えない人は、
死ぬしかないのでしょうか?

A.少し前にも「働く」ことについて回答しましたが、世の中の「働く」のスタンダードがおかしくなってしまっているので、「働けるのに働かない人」の誤解を生みだしているように思います。

カエルはの認識では、どんな人でも、自分の持っている資源を活用して働くことができると思っています。もしも、働けない人、働きたくない人がいるとしたら、それは働くための条件や準備が整っていないことが理由だと考えます。
例えば、体が健康な人がいたとして、でも、オオカミに育てられたとしたら働くことができないだろうと思います。それはなぜかというと、教育の機会がなく、学ぶことができなかったからです。それと同じように、その人の学び方に応じて必要なことを学ぶチャンスが、実はあるようでありません。

ポイントは「その人に応じた学び」の保障です。
学校の学び方はどうしても画一的で一方的であるがゆえに、それに合わない子どもは一定数います。また、生活が不安定で学ぶどころではなく、学ぶチャンスを得られなかった人もたくさんいます。虐待やいじめなどの暴力に怯えていたら、学ぶことができません。自分に降りかかる危険のために備えること、回避することにエネルギーを注ぎ、生き抜くための特殊なサバイバルスキルは身につくかもしれませんが、それが働くことに役立つかというと役立つことは少なく、多くは働くことを阻害してしまいます。

そして、人々が働くことを最も妨げているのが、日本社会の「働く」の大部分が、企業の都合で人材や働き方が決められていることです。
それに無理なく合う人もいるかもしれませんが、少なくない人たちが、その枠にはまろうとして無理をしています。無理をしてストレスや疲労が蓄積する人もいますし、合わせすぎて心身を崩す人もいます。また、合わせられない人は「働けない」「社会に適応できない人」という一方的な評価をされてしまいます。本当の課題は、ものすごく狭い枠にいろいろな人たちをはめすぎていることなのに、ハマれない人のせいになります。これは本当におかしなことです。

つい、熱くなりました…苦笑 カエルは世の中の「働く」を見直したいと思っています。このように「働く」が変わるとしたら、質問者さんの意見はどうなりそうでしょうか。
今の「働く」を見直すためには、質問者さんのように、今の働くことへ疑問や絶望がある人の声が必要なので、死ぬしかないどころか、生きて意見を届けてほしいとカエルは思っています。

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update 2025/11/28