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タグ社会派
Q.精神科で「そんな環境にいて非行に走らなかったのはえらい」と言われて反発したくなった
この記事の担当 ウ・サギ

Q.精神科で先生に家庭環境の話をしたら、「そんな環境にいてよく非行に走らなかったね。えらい。」と言われました。それを聞いて私は「は?やっていいなら今すぐでも非行に走れますが?」と思ってしまいました。何でこんなに反発したくなるのでしょうか。

A.その先生の発言、ウ・サギもなんだかモヤっと、いやもっと正直に言うならムカッとしました。非行に走らない=評価すべきことという価値観も、非行に走らないのが本人の意思や努力の成果のように捉えているのも、なんだかずれていると思います。だって、非行は褒められるべきことではないと思いますが、非行をする本人ではなくさせる環境の方により多く問題があるはずです。つまり非行の責任は、この社会、つまり社会を構成している大人一人ひとりにあるのに、「えらい」とはお前は何目線だ?とウ・サギはムカムカです。また、非行に走らなかったのも、大変な環境にいたら当時の自分にとってベストなサバイバル方法を選ぶしかなくて、それがたまたま非行になることもあればそうじゃないこともあるだけで、自分の意思で選べたとはとてもいえないと思います。
あとウ・サギの場合は、社会的成功者に偉そうな目線で物を言われると、なんでも反発したくなります。これまで苦境の中我慢してきた量が多いと、恵まれている(ように見える)相手のちょっとした言動に反発したくなるのは結構あるあるな気がしますし、受けてきた傷を発散するための自然な心の働きだとも感じます。それで周りを攻撃したり自分が苦しむ行動をしてしまうなら、その行動についてはちょっと考えた方がいいかもしれなくても、反発心自体は全面的に尊重してあげていいとウ・サギは思います。

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update 2025/7/14
Q.頑張りが足りないとか暗いとか直接的な言葉じゃなくても遠回しに言われたりする事に耐えられない
この記事の担当 ウ・サギ

Q.頑張りが足りないとか暗いとか甘えてるとか、直接的な言葉じゃなくても遠回しに言われたりする事に耐えられないです。適切な環境で育った人と同じように生きろと言われても無理です。私も苦しかったけど頑張ったんだよとか言われても…何をどう頑張ればいい?

A.まっとうな感じ方で、主張だと思いました。
頑張れるかも頑張った上で結果を出せるかも、生育環境の土台や、今の社会において有利な要素があるか(たとえば、あくまで傾向ですが、繊細よりは鈍感、内向的よりは外向的…あとは容姿がどう評価されるか、求められるジェンダーとマッチする性格か…その他諸々)が大いに関係しているとウ・サギは考えています。だから問題は、安心安全が保障されていないこと、本来は多様な個性であるものが理不尽に有利不利や優劣となってしまうことなど、社会構造にあると思っています。「私も苦しかったけど頑張ったよ」は、言った側にそのつもりはなくても、そういった不公正な社会の問題を個人の努力の問題にすり替える発言になってしまっていると感じます。でも、有利な要素をたまたま多くもっている側は自分の有利に気づく機会もなかなかないし、有利な要素があったとしても生きるのが苦しい場合も十二分にあるので、よくわからずに、時に善意で、私も苦しかったけど頑張ったよと言ってしまうことがあるように感じています。(このあたりはウ・サギが最近勉強している分野なので、ちょっと小難しく語りすぎたような・・・すみません)
何をどう頑張ればいいに答えるなら、自分の気持ちを元気にしてくれる環境に少しでも身を置けるように頑張ること…ですかね……。世間のメッセージを浴びるほどに、あなたの力が奪われていくと思うので、それは勿体ないととても思います。頑張りなんてそもそも指標が曖昧なものだと思いますし、この社会を生き抜くだけで、みんな精一杯闘っているとウ・サギは心から思っています。

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update 2025/7/13
Q.好きな格好や振る舞いや言動ができるメリットデメリット、自由の限界についてどう思いますか
この記事の担当 生きかたカエル

Q.誰でも安心して
好きな格好や振る舞いや言動ができる
そんな社会は生きやすそうだなと思う
しかし
結局は「気持ち悪い」とか「社会の迷惑だ」とかで否定される人がいるのかも
安心安全のための限界があるのかも
そういう社会ゆえに苦しむ人もいるのかも
安心して好きな格好や振る舞いや言動ができることによるメリットとデメリット
そして格好や振る舞いや言動の自由の限界について
どう思いますか

A.カエルも基本的には誰もが好きな格好や振る舞いや言動ができる世の中がいいと思います。ただ、そのことによって他の人の権利を奪うようなことがある場合は「いいです」とならない場合もあるかとカエルは思いました。
例えば、服を着たくない人がいても「好きな格好だ」と裸で過ごしていたら少なくともカエルはかなり困るので、それはやめてほしいと思います。また、言動が自由だと言っても、ヘイトスピーチのように特定の人たちのことを一方的に批判的な言葉をまき散らしたらとても傷つく人がいます。弱い者をいじめたいからと自由にいじめる振る舞いをされるのも、いじめられる人は悲しすぎます。
一方で、実際には周囲に迷惑をかけていなくても、格好や振る舞い、言動に対して「気持ち悪い」とか「迷惑」という一方的なジャッジを受けることもあります。日本国憲法第13条には、幸福追求権が掲げられています。そこには「公共の福祉に反しない限り」と個人の幸福追求や自由は尊重されると書いています。つまり、「公共の福祉」ってなんだ?ということになりますが、カエル的にはいろいろな人たちが対等に自分の感じることや考えていることを伝え合い、聞き合うことによってみんなが問い返し続けていくテーマだと思っています。
ちなみにさっきの服を着ない裸の格好では、今でもおそらく国や地域によっては服を着なくても問題ないところもあるのかなと思います。どこまでならOKなのか、なぜそれが嫌なのかダメなのか、普段から話し合える土台があり、一方的に決められるのではなく、常に考え続ける…そんなプロセスなくして自由だけが行き過ぎると、立場の弱い人が我慢を強いられることが多いと思っています。

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update 2025/7/10
Q.「元気になったらまた頑張ろう」が苦手。「元気になったらまた頑張ろう」についてどう思う?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「元気になったらまた頑張ろう」が苦手です
「もう苦しみたくないのに、元気になったらまた苦しい思いして頑張らなきゃいけないのか」と絶望的に感じてしまって苦しくなります
「休んでいると扱われる生活」が自分にとって丁度良く同時に精一杯だと感じます
「元気になったらまた頑張ろう」についてどう思いますか?

A.ウ・サギも苦手というか、「元気になったらまた頑張ろう」アンチと言ってもいいくらい、そんな風潮には反対です。頑張るか頑張らないかを決めていいのは自分自身だけだと思いますし、大体、今の社会は本当は必要じゃない努力を推奨しすぎだと思います。また、自分にとって丁度良い生活が一番大切だと思いますし、これなら休んでいてこれなら頑張っているといった定義を、周りが勝手にするのはマナー違反だと考えます。
つまり総合すると、「元気になったらまた頑張ろう」は、境界を尊重していない(本人だけが決めていい分野に土足で入り込んでいる)発言として、取り締まりたいレベルのものだとウ・サギは感じます。
ちなみにウ・サギ自身は頑張るのが大好きなので、自分に対してだけは「元気になったらまた頑張ろう」と思う派ですが、それを元気がないときに誰かに言われたら絶望するし、「何の権利があって言ってくるわけ?」とムカムカしちゃうと思います。

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update 2025/7/10
Q.資源には限りがあるとは思うけど誰も切り捨てられない社会がいいと思う
この記事の担当 生きかたカエル

Q.資源には限りがあるとは思うし
理想論だとは思うけど
自分は切り捨てられたくないし
誰も切り捨てられない社会がいいと思う
どうしようもない現実もあるかもだけど
切り捨てられる苦痛も現実だと思う
資源の限界と個人個人の苦痛についてどう考えますか

A.カエル的には、資源の限界と誰も切り捨てられないことは両立すると思います。資源の量や質に関係なく、人が誰も切り捨てない社会を作ることはできると思うのです。そして、資源はいつでも限界があります。大事なのは人間が資源と同時に人間の限界もわきまえつつ、何が大切なのかをいろいろな人たちで考え続けることだと思っています。

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update 2025/7/10
Q.休めば元気になる前提について色々感じるところがあるのですがどう思いますか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.休めば元気になる前提について
休んでもやりたくないことをやりたいと思えるとは限らない
できないことができるようになるとも限らない
そもそも「休んでいる」ほうが本人にとって無理ない生活スタイルかもしれない
そう感じるのですが
どう思いますか?

A.興味深い意見だと思いました。「休む」「元気になる」を世間で言われているイメージで捉えるか、質的な定義で考えるかで、たぶん話は変わってくるのかなとは感じます。
世間で言われているイメージの「休む」=学校や仕事など外部のタスクの多い世界に行かない、寝る、何もしないなど、「元気になる」=学校や仕事などに行く、周りの要求を満たせるようになる、活動的になるなど で考えるなら「休めば元気になる」なんて前提は、暴力的だし突っ込みどころの塊だと思います。あなたの言う通り、休んでいる方が無理ない生活スタイルのこともあれば、休んでも何かできるようになるとも限りません。そして何より、世間の求める元気像は理不尽に要求が高く価値観が限定的だとウ・サギは思っているので、思考停止の「休めば元気になる」キャンペーンには疑問を投げかけ続けたいと思います。
ただ、「休む」=自分のパフォーマンスが上がるようにセルフケアをしたり環境調整をする、「元気になる」=自分の本来もっている力が発揮できる(阻害されない)ようになる、といった質的な定義で考えるなら、「休めば元気になる」はある程度真理なのかなと思っています。その定義で眺めると、周りからは忙しく見えるくらいが実は休んでいる状態の人もいるかもしれないですし、別に元気といえるような様子に見えなくても休んでいると言われる状態であろうとも、本人も周りも苦しんでいないなら何でもありだと思います。
でも考えるほどに、「休む」は「元気になる」「働く」を正しい状態と定義して生まれている表現な気がしてきて、簡単に使うのは危ういのかもなと思えてきました。考えさせられる質問をありがとうございます。

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update 2025/7/8
Q.親の機嫌に怯えて生きてきて大学生一人暮らしで自分を取り戻せると思ったがダメで十数年経った
この記事の担当 ウ・サギ

Q.親の機嫌に怯えて生きてきました。大学生になって一人暮らしすることになり、ここからは自分を取り戻せる!と思いました。でも全くダメでした。大学に馴染めず中退してそこからもう十数年経ってしまったけど未だに停滞しています。誰か助けてって叫びたいです

A.誰しも、困ったときには誰かの力を借りて生きているので、誰か助けて って叫びたいのはとてもまっとうな気持ちだと感じました。全部自分でやりたいと言われたらちょっと困ってしまいますが、どうやったらうまく助けを借りられるのか、助けてを伝える相手としてまずどこがいいのか、そこなら知恵を出せるはずなので気合を入れたくなります。(といっても、質問箱でやれることも、ウ・サギの知っていることにも限界があるのですが…)
補足で、支援を頼ろうと試みたことはあること、相性のいい人が見つかるまで当たって砕けるのは無理だと感じるとありましたが、「そうだよね…」と頷くしかできない感覚になりました。恐れ多くも提案をさせてもらうなら、匿名のチャット相談などはわりと優しく寄り添ってくれるのと、この人無理だ!と思ったら速攻逃げれること、(大きい相談機関なら)相談する度に基本違う人に当たると思うので、一応おすすめはします。
家庭で大変だったところからとりあえず逃げられても、回復には少なくない時間とコストがかかるケースが多いというのがウ・サギの実感です。安心したことでつらさが爆発する場合もあれば、自由だとどうしていいかわからない、身についた不安が邪魔して自分らしくいられない、人に頼れず一度つまづくと浮上できなくなる、人を信用しようとする過程で周りを振り回したり傷つけ合うような関係性を繰り返してしまう・・・等々、あらゆる困難が起こりえますし、停滞するのはサポートが十分になかった結果だと思います。子ども時代の傷の影響に苦しみ続ける大人への支援が乏しいのは大きな問題で、本当に理不尽だともいつも思います・・・。
語ることは自分を取り戻すことにささやかにつながるとは思うので、またよかったら質問をください。

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update 2025/7/5
Q.ハンディキャップを馬鹿にしたり見下してくる支援者がいて傷つく
この記事の担当 生きかたカエル

Q.ハンディキャップを持ってることで
馬鹿にされたり見下してくる人が支援者でいて傷ついて悲しくなります
いつの時代でも差別や偏見がなくならないから
生きづらいです

A.そういう支援者からは離れられるのなら離れた方がいいと思います。支援者と言ってもいろいろなので、選択することが大切だとカエルは思っています。でも、選べない時もあるので、悩ましいですね…
差別や偏見は究極的にはまったくなくなることはないとカエルは思いますが、少なくとも差別や偏見について話す機会を増やす必要があると思います。

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update 2025/7/5
Q.以前質問した者です。回答の”自然な心の働き”について考えてみました
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「仕事も家事もやりたいと思えない自分を親は支えてくれているのに将来介護したくない自分が嫌で苦しい」の質問をした者です
“自然な心の働き”について考えてみたのですが
朝から疲れていて、もう頑張りたくない感覚がずっと続いてるような気がします
自分を生かすのも自分の限界を超えてしまっているような感覚です
“必要性や理由”はシンプルに「もう頑張るのは限界」ということなのかもと思いました
自然な心の働きって、こういうことでしょうか?

A.汲み取ってくださりありがとうございます。そういうことがウ・サギとしては伝えたかったです!という気持ちで読みました。
もう頑張るのが限界なら何もやれないのは自然なことあり、それはあなたの意思や資質の問題ではないし、思考や努力や根性でどうにかなるものでもないとウ・サギは考えています。限界を超えているなら、そのときの最適解は何もせずに、なるべく生きる負荷を減らすことだと思います。そう考えると、もうウ・サギが何も言うまでもなく、あなたのこころやからだがあなたを守ろうと一生懸命働いていますね。
人間は感情が本体の存在であるとウ・サギは考えていますし、エネルギーにも限りがあります。だから「頑張らなくては」「迷惑をかけたくない」など思考が発達しすぎて、感情の自然な発散やケアを阻害してしまう現象、エネルギーの限界を忘れてしまう現象が増えているのは、由々しき事態だと感じています。

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update 2025/7/5
Q.子ども嫌いは変、家庭を持つのが絶対幸せ、など言われ続け心が疲れた
この記事の担当 所長室

Q.「子供が嫌いなのは変」「生産性がないと社会的価値がない」「家庭を持つのが絶対幸せ、出産すればあなたの考えは変わる」…こんな事ばかり言われ続けて心が疲れました。理解者は周りにいません。どうしたら自分らしく自由に生きられるのでしょうか。

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update 2025/7/5