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タグ社会派
Q.どうして見た目で得したり損したりするの?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.どうして見た目で得したり損したりするの?そして見た目で損をしてしまう場合は、どうすればその不利益を避けられる?

A.見た目を過剰に重視する人が多いからでしょうね。カエルとしては何が損か得かは人によってかなり違うと思うのですが、不利益を回避する方法としては
①見た目を重視する人や情報を避ける
②自分の中の損や得の基準を変えてみる
という具合に、環境を変える方法(①)と、自分の中の価値を変える方法(②)があるかと思います。カエルは第三の方法として、世の中の価値観を変えるという方法を模索中です。よかったら、一緒に世の中を変えましょう。

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update 2025/5/25
Q.自由が怖い、嫌い、疲れた。誰かに支配されたい。そう思うのはだめなことですか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自由が怖い、嫌い、疲れた。誰かに支配されたい。そう思うのはだめなことですか。

A.全然だめじゃないと思いますよ。なんなら、生きづLABOでも、やみーペンは「自由は好きじゃない」と言っています。
そして昔は実際に支配されにいってもいた気がしますが、今は自分をほどよく洗脳してくれて、自分を傷つけてこないものを選んで、流されているようなイメージがあります。
「支配されたい」という意識ではなくても、「流されてる方が楽」とか「決めてほしい」という人は実は結構多い(むしろたぶん多数派)とウ・サギは感じています。
あと、あなたのいう自由とはもしかしたら話は違うかもですが、ウ・サギ的には今の時代は「個人の自由でなんでも選べます」みたいな雰囲気があるだけで、実際のところはフラットな選択肢は少ない(例えば、家から出るのが簡単じゃない、学校に行かないとプレッシャーや不利益がある、フルタイムで働くという形じゃないと生活が難しい、空気を読まないと攻撃される、死にたいと言いづらい…etc)と感じます。だから「怖い、嫌い、疲れた」という感情はすごく自然な反応に感じましたし、それはあなたの意識の中では「自由」を対象にした思考として暴れてたとしても、その奥には経験や感覚や、言葉にできない思いの集合体があるイメージを抱きました。(ウ・サギは、思考は基本的に感情や感覚の後付けで生まれるものなのでは?と考えています)
だからどんな思いもだめじゃないし、論の是非ではなく、どうしてそういう思いになったのかを語れることが大切なのだとウ・サギは感じています。

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update 2025/5/25
Q.「身近な人の自殺のサインに気付こう」という言葉をどう思われますか? 
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「身近な人の自殺のサインに気付こう」という言葉をどう思われますか? 
私の経験上、希死念慮が他人からは想像以上に見えていないと痛感しています。だから簡単には気付けなくて当然で、逆にそれが明らかに見て分かる頃では支援が間に合わない気がします…

A.ウ・サギは、死にたい気持ちは「生きる負担>生きる楽しみ・価値」という状態があって、生まれるものだと思っています。もし死にたい気持ちを感じていない人でも、同じく「生きる負担>生きる楽しみ・価値」になっている場合が少なくないと感じますし、自殺を止めたいと思うなら、そういった世の中(家庭、学校、仕事・・・生きる負担があまりに多いと思います)を変えるのが、一番のやるべきことだと考えています。だから、誰かが自殺という行動に至るところでやっと「自殺のサインに気づく」ことを重要視されても、なんだかなあ、とウ・サギは思ってしまいます。亡くなってしまったら生き返ることはないので、気づくことも勿論大切だとは思いますが…。
ちょっとあなたの話からズレたことを語ってすみません。ウ・サギも、人や場合によりますが、希死念慮も自殺のサインも周りから全然見えないことはあると感じます。というかそもそも、人がどんな感情でいるか、どんな考えをもっているかは、周りには(時に自分にだって)なかなか見えないものだと思います。だから自殺のサインに限らず、感じていることを言える関係をつくることがポイントだと感じますし、そのためには常日頃から、ネガティブな気持ちを否定しない、頑張りや完璧を求めない、良い悪いの評価をしないなど、「この人になら言っても大丈夫だ」と思ってもらえるような振る舞いや生き方をするのが大切だと思っています。

update 2025/5/21
Q.お母さんはよく私と兄たちを比べる
この記事の担当 ウ・サギ

Q.社会人の兄と姉は2歳差でずっと一緒だった。私と兄たちは最低でも10歳差で家には私1人。お母さんはよく私と兄たちを比べるけれど、2人と1人は違くない…??って思う。

A.2人と1人は違いますし、1人と1人だって、人間はそれぞれに違います。だから比べられるものではないと思いますし、立場の強い側(親)が弱い側(子ども)を堂々と比較してそれを言葉にしてしまうなら、それはちょっとキケンなことだとウ・サギは感じています。自分の価値が、何か特定の能力や資質、行動によって決まってしまうような不安を、子どもに植え付けてしまうかもしれないからです。
あなたについては、違くない…??と思えているようなので、比較に負けていないとちょっと安心もしましたが、比べられるのは何かしらイヤな気持ちのするものだろうと想像しています。それにしても、なぜ人間界ではここまで比較が流行してしまったのでしょうね……

update 2025/5/15
Q.バイリンガルの人も、自分の母国語を完璧に話せるべきだと思いますか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.バイリンガルの人も、自分の母国語を完璧に話せるべきだと思いますか?

A.いえ、そんなことは全然ないと思います。
世の中では、いろんな人が「こうするべき」「こうしたほうがいい」と勝手に、これが正しい意見みたいな顔までして言ってくることがありますが、物事にはいろんな見方、考え方があるので、基本的に自分の考えを採用していいとウ・サギは感じます。
ちなみにウ・サギの意見としても、バイリンガルが自分の母国語を完璧に話す必要があるとは感じません。もし自分自身が完璧に話したくなったら勉強するのもいいと思いますが、そもそも言葉のニュアンスは個々に違いがあるので、日本語が完璧に話せたって意思疎通できないこともたくさんありますからね・・・。大切なのは、言葉を完璧に話せるかとは別のところにあるとウ・サギは考えます。

update 2025/5/14
Q.無職の人や居場所がない子=頑張らないやつなのか?親の意見は何か違うと思い意見を聞きにきた。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.リストカットしている人を見て親は、「こんなん自己アピールだ」とか、居場所がない人には「社会が居場所作ってんのに入ろうとしないだけだ」とか。何か違うなと思い、意見を聞きにきました。無職の人や居場所がない子供=頑張らないやつなのでしょうか?

A.親の意見にはウ・サギも「何か違うな」、いや「とても違うな」に一票です。
そんな意見は困っちゃうなあといくらでも文句は出てくるのですが、おかしいポイントをウ・サギなりに挙げてみると、
①そもそも他人のことを勝手に決めつけるのはいつでもマナー違反
②人間の感情も行動も周りとの関係性の中で起こることだから、「本人のせい」という考え方はあまりに一面的
③自己アピールだとしても、それは否定されるべきことではない
④何を根拠に言っているかは謎だが、社会に居場所があるとは思えない(居場所があれば、死にたいと感じている人がこんなに多くないはず)

ちょっと難しい言葉を使うと、無職や居場所がない人=頑張らないやつ(”その個人”の努力不足)という考え方を「個人モデル」といいます。反対に、何か困りごとがあるとき、それは社会の構造が引き起こしていることという考え方を「社会モデル」といいます。個人モデルでは、解決のための努力をするべきは個人。社会モデルでは、解決の努力をするのは社会(といっても社会は人間の集合体なので、一人ひとりが社会の問題に目を向けて解決を目指していく)となります。
ウ・サギは(生きづLABOは)社会モデルの考え方をしています。あなたがどんな意見や考え方をもつかは勿論自由ですが、自分の「何か違うな」には大切な気持ちが隠れていることが多いとウ・サギは思うので、そのフィーリングをこれからもぜひ尊重していってほしいです。

update 2025/5/13
Q.幸せを感じることもあるのに何となく憂鬱になり生きていくことをぷつっと終わらせたくなる時がある
この記事の担当 ウ・サギ

Q.何となく憂鬱になる時があります。生きていくことをぷつっと終わらせたくなります。幸せを感じることも楽しいこともあるのに、そんな気分になる時があって、どうしたらいいのか分からなくなります。

A.幸せを感じることも楽しいこともあるのに、生きるのをぷつっと終わらせたくなる…なるほどです。悩みを一般化する(誰でもそんなもんだよと言う)つもりはないのですが、実は同じような人も少なくないのではないか?とウ・サギは思いました。
なぜなら、この複雑な社会で生きていくのは、なかなか面倒で大変なことだからです。楽しいことがあっても、なんとなくのプレッシャーを感じたり、気を張っていることや努力していることも同じか同じ以上に降り積もっていることが、案外ある気がするのです。だから憂鬱になるのは、ふと気が抜けたときに起こる現象かも…?とも思いました。
ウ・サギは「社会的公正を目指すんだ!」とアドレナリンを出して、疲労や負の感情を誤魔化してる部分があるので、ちょっと凹むことがあるとすんっと死にたくなる時があります。そういうときは天気が良くなるのを待つみたいに、現実逃避しながら気分の回復を待ちますが、ああ死にたいなあ、生きるって疲れるなあ、と浸る時間も、一番自然体な自分な気もしていて、それはそれで大事だとも感じています。

update 2025/5/13
Q.なぜ義務教育を終えた学生は一度でも心の病気になったりするとその生活を諦めなければいけないのか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.なぜ、義務教育を終えた学生は一度でも心の病気になったり普通の生活が難しくなるとその生活を諦めなければいけないのでしょうか。無理しないようにと声をかけていただいても単位が気になってなかなか休めません。色んな選択肢があればいいのにと思います。

A.おっしゃる通り、義務教育後の学校は「単位」というもので成果が決まっているので、カエル的にはそれは一定程度仕方ないところはあるのかなと思います。ただ、カエルとしては学校はいつでもやり直しできたり、大人になってから学びたくなって別の学校に行ったりと選択肢はわりとあるようには思っています。ただ、そこまでバリエーションがあるかというと、多くの人が回り道をしたり、大人になってから行く道はあまり選ばない(目立たない?)ので、どうしてもストレートで行って体調面や経済的な問題などの事情で中断すると不利益になってしまうことはあるのだろうと思います。
ただ、少子化が進み学校に来る人はどんどん少なくなるので、こうした声が出てきたら、学校のスタイルも様々になると思います。広げていきたいですね。

update 2025/5/11
Q.ゲームからログアウトする感覚でしにたくなるんですけどだめですか
この記事の担当 ウ・サギ

Q.ゲームからログアウトする感覚でしにたくなるんですけどだめですか

A.しにたくなることは全然ダメじゃないと思います。
でも、補足も読んだ感じ、思うことについてのダメとかいいではなく、「しんでもいいよね?」という方向の問いをしている部分がありそうと受け取っています。
しぬ選択がほしい、という強い思いは、この社会に素敵な(マシだと思える)選択肢が見えない、これまでの自分には選べるものも十分なサポートもなかった、という叫びだとウ・サギは受け取っています。ウ・サギは個人が何を選ぶかに干渉はしようと思わないですが、そういう選択肢のない社会のあり方は絶対に変えるという思いで生きているので、しぬのはだめですか?と聞かれると、しぬ・・・(ことを考えたくなる社会では)だめです、という気持ちで黙るしかできない感覚になります。変なことを語ってしまいすみません。

update 2025/5/7
Q.「〇〇だから仕方ない」は支える側に、「〇〇を言い訳にするな」は当事者側に暴力ならどうすればいいのだろう
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「〇〇だから仕方ない」は支える側にとっては暴力で
「〇〇を言い訳にするな」は当事者側にとっては暴力
そうだとしたらどうすればいいんだろう
支える側も当事者も助かる仕組みに手が届きやすくなればいいのかな、くらいしか思いつかない

A.例えば、「発達障がいだから仕方ない」「発達障がいを言い訳にするな」みたいな話ですかね。
「言い訳にするな」は間違いなく暴力ですが、本人が「〇〇だから仕方ないじゃん!」と主張するのは、暴力までとは言わないかなとウ・サギは思いました。それを言われたら、支える側が困っちゃうし、話が進んでいかない、みたいなのはあるかもしれません。でも、例えば「自閉スペクトラム症だからこだわりが強い」のは仕方ない(変えられない)ことでも、こだわりで「自分や周りがなるべく困らないようにする」ことは工夫していけると思っていて、その認識をお互いに持てるといいのかなとは思ったりします。
論だけでぶつかると平行線になってしまうことがあるので、どうしてその人がそれを言うのか、言われてどう感じたのかなど、主張の裏にある気持ちを話すのが大切なのではないか?と最近ウ・サギはよく思います。
でもぶつかってる同士でそれをやるのは大変だと思うので(当事者側はとても傷つきますし)、間に入ってくれるような存在や、支援者側にも一歩落ち着いて相談できる相手がいればいいのかな、とも感じます。

update 2025/5/6