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タグ哲学
Q.孤独は埋まらないものと気づいてから、造詣が深くなったと同時に感情を抱えきれなくなった
この記事の担当 ウ・サギ

Q.人は誰しも孤独を抱えているけど、孤独の形や輪郭、解像度はそれぞれ違くて、何かで埋めようとしても埋まらないものだと気づいてから、感情の造詣が深くなったと同時にその感情を抱えきれなくなりました。どうしたらいいですか。

A.補足もありがとうございます。ウ・サギ自身の感覚や関心とリンクするところもあったので、興味深く読みました。
まず、自分の感情を繊細に感じることができて、掘り下げることができて、言葉にできるのは一つの才能であり力だとウ・サギは思いました。感情の造詣が深くなったと同時に感情を抱えきれなくなったとありましたが、何かを追究するというのは近い次元で思考や感覚を共有できる相手が限られることにもつながると思うので、孤独がより深まるのかもしれないと感じたりもしました。
ウ・サギは「誰しもが孤独だから、孤独であることは独りを意味しない。むしろ掘り下げれば全ての存在とつながっている(多かれ少なかれ痛みを共有できる)」という考えをしています。うまく説明はできないですが、そのために芸術があるし、創作をするのだと思っています。行き場のない孤独が創作を生み出し、連帯や癒しとつながっていくのなら、孤独というのはある種の資源であり可能性の塊といえるのかもしれません。といっても、孤独がつらさや痛みを伴うのは、たぶんあまり変わらないのだろうとは思います……。

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update 2025/12/6
Q.サポートを受ければ私も働けるかもと思う一方で、意欲が湧いてこない自分が嫌になる
この記事の担当 生きかたカエル

Q.障害年金や生活保護を活用しつつ、
働く上での支援やケアやサポートも受けながらなら、
私でも働けるのかもしれない、そう思う。
一方で、
そこまでして働かなきゃいけないのかなって気持ちが強く出てきてしまう。
意欲が湧いてこない自分が嫌になる。

A.意欲がわいてこないのは、準備が整っていないからだろうとカエルは思います。
まだ、安心安全の保障や、自分の存在や力へのある程度の信頼感など、社会に貢献するために必要なものが整っていない時点ならば、イメージがわかなかったり、懐疑的になることは自然だと思います。もちろん、個人差があるので、そうした準備が整っていても「働きたくない」と思う人はいるかもしれません。そして、必ずしも自分から積極的に「よし働くんだ」という意欲を前面にして働くようになるのではなく、「仕方ないけど必要だから働くかな」ぐらいの意欲が自然だと思っています。
また、物事を継続することは簡単なことではないので、働くようになっても体調や環境、その時のいろいろな条件の中で、働きたくない気持ちが大きくなることも自然だと思います。これは働くことだけではなく、あらゆることに対して意欲のある時もあれば、そうでもない時もあるというのが当然なのかなとカエルは思っています。そうした、気持ちやモチベーションの揺れにつきあいつつも、自分なりに向き合い続けることを含めて、生きることそして働くことだとカエルは思うのです。
そして、働くシリーズで質問をしている質問者さんは「働くこと」というキーワードをめぐって問いが展開しているようですが、実は「働くこと」に含まれる別のことに引っかかっているようにもカエルは思えます。働くことの中に本質的な何かが隠されているような気がするので、一度、テーマから離れてみると何か見えてくるかもしれないと思うカエルでした。

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update 2025/12/6
Q.目に見える形で壊れたら…の質問に共感した。私もそう思うと同時に、見捨てられる不安もある。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.目に見える形で壊れたら…の質問に共感しました。私もそう思うと同時に、もしバラバラに壊れてしまったら、醜いと思われて人から見捨てられるんじゃないかという不安もあります。

A.この質問か、この質問のことでしょうかね。ちゃんとしようとする気持ちが強いほど、実際にちゃんとできてしまうほど、負担が果てしなく溜まっていく構造にはウ・サギもいつも悩ましさを感じます…。見捨てられるかもしれないという不安も、本当に厄介なものですよね……。
ちなみに、励ますでもないですが、バラバラに壊れることは「醜い」とはならないとウ・サギは思いました。なぜかというと、人は誰しも弱くて脆い部分がある(バラバラに壊れる可能性のある)存在なので、自分の弱さや脆さを正しく知って受け止めている人から見たときに、壊れることは恐怖や嫌悪ではなく共感の対象だと思うからです。誰かの弱さを否定したり見捨てる人は、自分自身の弱さから逃げているのだとウ・サギは思っています。話がズレてしまって失礼しました。

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update 2025/12/3
Q.「働きたくない」の違う表現を考えたら「休みたい」とかが出てきた。こんな感じでいいの?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.「働きたくない」の違う表現を私自身で考えたんですが、
「もう頑張りたくない」とか「これ以上の苦痛は嫌だ」とか「やりたいことをしたい」とか「休みたい」とかしか出てきません。
こんな感じの違う表現でいいのでしょうか…?

A.はい、そうした表現をする方が、社会に対して正しく理解をしてもらえるかとカエルは思います。「働きたくない」と表現すると、誤解を受けかねないと思います。だから、つまり「働きたくない」というのは、個人の気持ちという切り口からの表現で、掘り下げていくと、社会について考える機会(働くの本質は何?今の働くはどう偏ってしまっているの?…)になります。
「もう頑張りたくない」と言われれば、そう思うほど頑張り続けてきたのか、それはどういうことだ?と疑問につながりますし、「これ以上の苦痛は嫌だ」と言われれば、そう思うほどの苦痛は何だろう?と知りたくなります。また、「休みたい」と言われれば、何から休みたいのだろうかと、その発言の背景や理由を社会のこととして対話することができます。
まぁ、「働きたくない」と言われても、「どうして働きたくないのですか?」とカエルは深めたくなるのですが、相当の深める志向の持ち主ではない限り、「何、わがままなこと言ってるんだ」という印象を持たれてしまうように思います。だから、自分の気持ちを社会と結びつけて、表現する機会が、この社会が少しずつ変わっていく機会になるとカエルは思っています。でも、苦しさが強くなるとそんなことまで考える気力もなくなりそうですし、そもそも社会について知る機会も、権利について学ぶ機会も少なすぎるのでそのあたりも課題かと思っています。

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update 2025/11/30
Q.支援学校までしか行っていなく、これからの生き方がわからない。どうしたらいいだろうか
この記事の担当 生きかたカエル

Q.支援学校までしか行ってなくてこれからの生き方がわかりません。学力もなくやる気も出ません。どうしたらいいでしょうか

A.カエルも支援学校についてはわりと実態を知っている方ですが、支援学校は一人ひとりに応じた学びを提供してくれる教育環境としては、悪くないと思っているところがあります。ただ、世間からの評価として支援学校が通常の学校よりも劣るという理解をする人が多いかもしれません。学力に関しても、確かに今の社会では高い方が低いよりも優遇されてしまうので、学力がないと生きるうえで困ることも少なくないかもしれません。ただ、カエル的には身近に支援学校を出て、その人なりに生きている人もいますし、学力がなくてもぼちぼち生きている人もいれば、学力があってもかなりしんどい状況の人もいます。だから、カエルとしては、学力や学歴ではなく、あなたのやる気が出ない要因は他にありそうだと思っているところでした。何はともあれ、何かをしようと思ったときに最も大切なのは自分を知ることだとカエルは思うので、誰か自分のことを一緒に考えてくれる人と話してみてほしいと思いました。もしすぐに見つからなければ、いつでも質問をください。

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update 2025/11/28
Q.「メンヘラ」という言葉が生まれた頃は差別的なニュアンスでは無かったように記憶している
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「メンヘラ」という言葉が生まれた頃は精神科医、心理職、当事者を幅広く含む精神疾患と闘う人達のようなニュアンスで差別的では無かったように記憶しているのですが、いつ頃の時期から差別的に使われるようになってしまったのか気になっています。

A.この配信での「Q.私は「メンヘラ」という言葉は、差別用語に感じます(以下略)」を見ての質問ですね。ウ・サギは歴史については無知だったので、情報ありがとうございます。
言葉は、誰がどう使うかによって、時代の移り変わりによって、意味合いやニュアンスが変化していくものですよね…。差別的に使われているか、そうではないフラットなものとしてあるかは、コミュニティによっても変わると思います。ウ・サギの周りはメンヘラを差別したり軽んじたりする風潮が全くないので、ウ・サギはメンヘラを名乗ることも時々します。
属性についての表現は、周りが「あの人は○○だ」と勝手にカテゴライズして、それだけでわかったようにああだこうだ言い始めると、よろしくないことが起こっていくように思います。ウ・サギが初めてメンヘラという言葉を見たのは、ネットでの「彼女がとんでもないメンヘラだった」みたいな男性視点の話だった記憶があるので、そうやって周りが使うようになって、差別的な表現や不適切な理解につながりかねないものになっていったのでしょうかね……。抑圧されている側が自分の苦しさに名前をつけたり、その言葉を使って自分のことを語るのは大切だと思うのですが、抑圧している側がその言葉を好き勝手に使って語るのは、とても暴力的なことなのだろうとは感じます。

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update 2025/11/28
Q.私の人生には「にげる」しかコマンドがない。一体どうしたらいいんだろう。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.私の人生には「にげる」しかコマンドがない。
そのせいでろくでもない人生になっていると思う。
一体どうしたらいいんだろう。

A.その「にげる」コマンドの背景には、何かに向き合いたいと思えるだけの愛着や信頼、安心感などを世界に抱けなかったという事実(関係性)があるようにウ・サギは感じました。だとすると、「にげる」は、そうするのが自分を守るためには合理的だった、そうせざるを得なかったという、ある意味選択肢がない中での唯一のコマンドだったのかなと考察しています。
質問者さんを取り巻く環境がどういったものだったかはわかりませんが、周りと感性などが合っていなかったり、小さなことでも信頼できなさを察してしまったり、自分でも意識しきれないうちに大小さまざまな違和やモヤモヤを積み重ねてきたのかもしれないと想像しています(このあたりの想像や考察が的外れに感じられたらすみません…)。ちなみにウ・サギは閉じこもりがちな性格で、不安が強く疑り深いので、「かかわる」というコマンドに気づくのに、周りと比べると随分時間がかかったように思います。「もとめられたことにおうじる」は得意だったのですが・・・。
一体どうしたらいい・・・難しいですね。でも何かがつらい、どうにかしたい、と感じていること自体が、とても人間らしく、ちょっと大げさかもしれませんが、いわゆる第二の誕生のような現象かもしれないと感じています。ウ・サギ調べでは、多くの人は「それっぽくふるまう」「ながされる」という、コマンドとも言えないオートマモードで生きている印象なので、周りと比べても案外、質問者さんの現在地が遅れているわけでもない気がします。

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update 2025/11/26
Q.死にたい気持ちを抱えている。そんな中、横穴墓群を訪ねると、なぜか心が安らぐ。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.死にたいという気持ちを抱えています。そんな中、横穴墓群(古墳時代の墓の一種)を訪ねてみると、なぜか心が安らぎます。死について考えたのではなく、今は亡き古代の人からのメッセージを感じ、過去と未来の生命の響き合いに無意識に参加してしまいました。

A.過去と未来の生命の響き合い…何だかいいですね。長い歴史、広い世界の中において、我々はちっぽけな生命で、でも同時にその深く広い連なりの一員でもあるということを、この質問を読んでウ・サギは想像しました。
機会があったら横穴墓群を訪ねてみたいです。

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update 2025/11/12
Q.自分が犯した間違いだけ罰を受けてスッキリしたい。苦しい。どうしたらいいですか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自分が犯した間違いだけ罰を受けてスッキリしたい。苦しい。どうしたらいいですか?

A.なるほど、罰ですか…。犯した間違いと向き合うことに心を擦り減らしていて、何かわかりやすい形で一区切りつけたいという感じでしょうかね。(全然違ったらすみません)
ウ・サギは昔、自分より弱い立場の者を蔑ろにしてしまい、自分の犯した間違いにショックを受けたことがありますが、
①なぜ間違いを犯してしまったのか、相談することで整理して自己分析する
②それでも1カ月くらい四六時中自分を責める 
③責めるのはやめて、同じ過ちを繰り返さないようにするために力を注ぐ
というルートである程度は自分の中でスッキリさせたような気がします。誰しも間違いは犯すので、自分を責めすぎるのも罰もあまり意味はなくて、間違いを静かに背負ってどう過ごしていくかが大切なのかな…?とウ・サギは思っています。でも、何か自分の中でスッキリするための一つの区切りがほしいなら、罰みたいな行為をやるのもそれはそれで大切かもしれませんね。(ウ・サギの場合はそれが1カ月間の執拗な自責だったように感じます)
質問からは、もう十分深く苦しんできたような雰囲気を感じているので、すでに罰を受けているとウ・サギは思ったのですがどうでしょうか。

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update 2025/11/12
Q.苦しさを比べるなって言うけど、でもやっぱり比べちゃう。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.苦しさを比べるなって言うけど、でもやっぱり比べちゃう。自分より長く希死念慮と付き合ってる人、虐待やいじめを受けた人、精神疾患を持ってる人。そういう人ってやっぱり自分より苦しいんだよなって。

A.ウ・サギも苦しみを比較していた派閥ではあるので、比べちゃうのはまあ・・・ありますよね。
苦しさは主観なので客観的な指標はないと思うのですが、「選択肢が奪われているか」「安全が守られているか」「感性や能力が今の社会と相性がいいか悪いか」など苦しさの要素を分解すれば、ある程度比較は成立するとウ・サギは思います。(このあたりは経済学者のアマルティア・センという人が興味深い話をしていたりするのですが、具体的に書くと長くなるので省きます)
自分の苦しみを軽く見たり抑え込んでも誰にも何も良いという点で、ウ・サギは苦しさの比較には基本否定的です。ただ、人間にはたくさんの要素があるので、自分の方が余裕があって相手の方が大変な部分と、逆に自分の方が大変な部分と、両方混ざっているのが人間関係だと思います。比べる行為が「自分が苦しいなんて思って申し訳ない」と自分を責めたり、「みんなつらいんだからあなたも我慢して」と相手を封じ込めるのにつながるのではなく、尊重し合うために活用されるにはどうしたらいいのか、ウ・サギは考えていきたいと思っています。

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update 2025/11/10