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タグ哲学
Q.誰かが我慢して成り立っている平和も良いとは言えないと思うんですけど、どう思いますか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.怒鳴ったり人を否定したり、私を恐怖で黙らせて「幸せな家庭」と言っているような母がニュースなどを見て「争いは良くない」と言っていました。私は、誰かが我慢して成り立っている平和も良いとは言えないと思うんですけど、どう思いますか?

A.とても冷静沈着で妥当な意見だと思います。カエルも全面的に賛同します。
そのうえで、矛盾した言動を見せるお母さん側についても想像してみました。人を否定したり、恐怖で子どもを黙らせていることについては、気づいていないか、別の認識をしているか、家庭は治外法権で一般の社会や世界とは違うものだと思っているか、何かがありそうです。

それから、あなたの意見を見て改めて気づきましたが、平和というものは常に誰かの我慢の上に成り立っているのかもしれません。誰も我慢せずに平和は成立しなさそうです。ただ、その場合に誰がどれぐらい我慢するかということが問題なのだろうと思います。少なくとも力や権力と比例して我慢が傾斜配分される(権力をもっている側が多く我慢する)のが原則かと思うのですが、実際には逆になってしまうのが大きな問題ですね。

update 2025/1/6
Q.人間と他の生物の違いは思考や感情があるところなら、失感情症は人間と認められない?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.人間と他の生物との違いは、思考や感情があるところだと聞きました。
もしそうならば、失感情症の人間は人間と認めてもらえないですか?

A.人間と他の生物との違いが何かはウ・サギは無知でわからないのですが、あなたという人間と他の生物との違いだけに絞るなら、それは概念というものを獲得している部分に見出せると感じました。
人間の定義を考えたり、失感情症という形のないものに名前をつけられるのは、他の生物には(おそらく)できないことです。

うまくいえないのですが、たとえ思考や感情がはっきりとしなくても、どんな人間も「心」はもっている気がするのですよね。悲しみを抱いたり、居場所がないと感じてつらくなったり、人とのつながりを求めたり・・・感情を失うのも、その働きがあるゆえに起こる気もします。

update 2024/12/20
Q.その人らしさの根拠とは何でしょうか。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.その人らしさの根拠とは何でしょうか。
私は何をもって、自分が自分であることを確かめればよいのでしょうか。

A.とても哲学的だとカエルは感じました。
カエルも哲学が好きですが、もっと哲学に詳しい仲間にアドバイスをもらいました。そのまま紹介します。

(※生きづLABOの質問BOXでは、質問について、サイトには公開されない補足の内容を書くことができます。補足の内容を汲んでの回答になりますので、質問の本文のみ見ている人には若干話が見えない部分もあるかと思いますが、ご容赦ください)

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「普通の人」とは異なる問いに悩んでいる疎外感と、そのことについての少しばかりの誇らしさを感じました。例示や不合理な帰結の導出など、哲学的な議論の仕方に慣れておられるようにも見えましたので、なぜ生きづLABOに尋ねたのか、何を期待しているのか聞いてみたいです。

これらの問いは「生きづらさ」の問題として見るか、哲学的な問いとして追究するかでアプローチが変わると思います。生きづらさの問題として受け止めるのなら、自分という存在の不確かさがどうして「普通の人」よりも切迫しているのか、その背景に何があるのか、どうしたら楽になるのかという観点から答えますが、そういう答えでこの方は満足するのでしょうか。「根拠」や「規定」という言葉から、むしろこの方が哲学の問いとして概念的に突き詰めたいのではないかと思いました。哲学の問いとして考えるのなら、おそらく誰もが納得できる絶対的な答えはありませんので、自分で言葉を鍛えながら探究するほかないと思います。論証や議論がしたいのならば、ほかに相応しい場所はありますので、そちらでやっていただければよいと思います。(永井均や中島義道の本を読んだのでしょうか?もしまだ読んでないのなら、面白く読めるかもしれません。)

あるいは二つの側面を切り離さずに、実存的な問いとして引き受ける道もあると思います。その場合には、他者の感じ方や考え方に触れて視野を広げたり、全く別の問いや課題に取り組んでみたり、幅広い人生経験が役に立ちます。抽象的な問題を考えるよりも、自分や身近な人の具体的な困りごとに寄り添うような経験を積むことです。いずれにしても誰かに答えを「教えて」もらうような問いではないと少なくとも私は思います。

個人の意見としてですが、私は自分自身(身体や過去の自分)との繋がりや、外界(社会やその外側の宇宙)との繋がりを感じられるとき、自分らしさや、自分が自分であると思えます。一言でいえば、「疎外された自分の一体性の回復」です。よって、現時点の自分の構成要素を分析するというやり方では「自分らしさ」に到達できないのではないかと考えています。もしこのような見方が正しければ、感じ方の異なる「普通の人」との共通の地平を探ることが一つの手掛かりになるかもしれません。また、補足の内容が思弁に偏っているように見えましたので、身体性を取り戻すことも効果的かもしれません。例えば、身体を大事にする、身体にとって快適な状態を作る(お風呂などで温める、柔軟体操や軽い運動をする、リラックスする)のはどうでしょうか。また、存在感や自己感覚の希薄さは、幼少期の深い傷つきやトラウマの経験と関わっている可能性もあります。
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update 2024/11/8
Q.なんで嘘をついたらダメなんですか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.なんで嘘をついたらダメなんですか?

A.とても、よい質問だと思いました。
嘘をついてはいけないことなんて、ありません。
「嘘をついてはいけない」というフレーズは、支配したい者が支配したい相手にかける洗脳の言葉だとカエルは思っています。
大人から子どもへ、先生から生徒へ、上司から部下へ…嘘をつくなと言うことはよくありますが、その逆で言うことはほぼないと思います。
つまり、「嘘をついたらダメ」というのは相手をコントロールするための抑圧の手段なのです。だから、嘘をつくかつかないかは本当はどうでもよいことだとカエルは思っています。そもそも、忠実に事実だけを語る人はいないので、誰もがいつも嘘つきであり、本当のことを言っているとも言えます。
また、いわゆる嘘として、わかっているけれど本当のことを言わない、あるいはわざと別のことを言うことはありますが、それでも「そう言いたかった、そう言わざるを得なかった事情」というものが含まれる、大切な自己表現なのです。
それを、支配したい側が自分の都合で「嘘」というレッテルを貼りいかにも正当な行為のようにして、弱い者を操作しようとすることがあまりにも多いのでカエルは「嘘をついたらダメだ」キャンペーンには賛同しかねます。

ただ、カエルも誠実に他者と付き合いたいという希望はあるので、嘘によって混乱したり、困ることはあります。そんな時は「嘘をついてはダメだ」ということではなく、「あなたは今そう伝えたかったのですね。でも、私には別のように思えます。本当のことを教えてもらいたい」とお願いすることはあるかと思います。ただし、お願いしたとしても、本当のことを言ってもらえるかは相手次第のことです。それでも、事実ではないことを言われたとしたら、関係性がまだ本音を言い合えるところに至らないのだろうと理解します。

したがって、「嘘をつくかどうかは自由」であり「嘘をついてはダメ」という台詞を言う人には気を付けた方がいいでしょう。というのがカエルの結論です。

update 2024/11/1
Q.とっくに成人していますが「自分は大人だ」という実感が持てません。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.とっくに成人していますが「自分は大人だ」という実感が持てません。子供のまま時が止まっているような感じです。一生このままなのでしょうか。何だか怖いです。

A.事実として「成人である」ということと、「自分が大人である」という自認は別問題だとカエルは思うので、食い違っていても問題はなく、あなたの感覚は自然なものではないかと思われます。
実際は私は私だというだけで、自分を何者だと思うかは流動的であると思っています。だから、怖いことではないと思うわけです。
ただ、怖いと思う気持ちがあなたにはあるのでしょうから、それは別の何かに対して恐怖を抱いているように思っていますが、それは何でしょうね。

update 2024/11/1
Q.大人にも普通にもならずに生きる抜け穴はありませんか。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.どうやったら大人になれますか。
どうやったら普通になれますか。
大人にも普通にもならずに生きる抜け穴はありませんか。誰か助けてください。

A.抜け穴はあります。
自分として生きることです。

カエルは大人でもなく、普通でもなく、カエルです。

普通や大人はアイデンティティの一種だと思うので、なりたい人はなればいいですが、なりたくない人はならなくてもいいのです。

そして、アイデンティティは自分がそうだと思ったら何にでもなれます。

あなたはおそらく、大人にも普通にもなりたくないと思っているように感じました。そう思っているだけで、すでに自分として生きているということになります。カエルはそれで(それが)いいと全面的に支持をしたいです。

ただし、世の中が過剰なほどに大人や普通を求めてくる、大人圧力や普通圧力が存在する実態はよく分かります。
この圧力を減らすために、自分は自分として生きるという認識がもっともっと広がってほしいとカエルは願っています。

update 2024/10/27
Q.読んできた本などで今の考えに役に立っているものを教えて
この記事の担当 生きかたカエル

Q.生きかたカエルさんがこれまでに読んできた本などで、今の考えに役立っているものがあれば、教えてほしいです。

A.「今の考えに役立った」というオーダーはちょっと悩ましいですが、高校生の頃に読んで、今でも印象に残っている一冊を紹介します。

三木清さんという哲学者の「人生論ノート」です。
一度、読んでみてください。
特に「幸福について」が印象に残っています。

update 2024/10/21
Q.「世の中なんとかなる」という言葉を聞くけれど本当になんとかなるの?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「世の中なんとかなる」「結局はなるようになる」という言葉を私は何回か聞いたりしましたが、どんなに辛い状況でも本当になんとかなるのでしょうか?

A.人間のいう真理のような言葉は、自分と自分の見聞きした経験のみをソースにした、その人の持論だとウ・サギは思っています。だから誰かの言う「~は~である」という言葉にウ・サギはいつも懐疑的です。

「世の中なんとかなる」は、「なんとかなった人」「生き残った人」の持論では?と突っ込みたい気持ちはあります。
ただ、ウ・サギの経験についていうと、昔詰みだと心底絶望していた状態、そのときに考えていた「世の中はこういうものだから」「自分はこういう存在だから」というネガティブな考えは結構的外れで、実際のところは詰まなかったので、なんとかなったと言えるのかもしれません。
だから隕石が降って来てあと数日で人類が滅亡とかでない限り、どんな状況も「今の自分の目線では」辛くて何もかも無理に見えても、なんとかなる余地は多かれ少なかれあるものなのだろうとは思います。

「結局はなるようになる」は、自分の予想や感情が真実とは限らない(どちらかといえば真実とかけ離れていることの方が多い)ので、自分で結論をつけすぎず感情に押されすぎずに何かしら動いてみよう、という意味の言葉なのかな…?とは思ってきました。でも簡単にそうできたら苦労しないですよね…とも思いました。

update 2024/10/17
Q.かわいそうぶっているのか、本当に病んでいるのか、自分のキャラがわからない
この記事の担当 うさえなが

Q.自分がどのキャラなのかわかりません。
かわいそうぶっているのか、本当に病んでいるのか。
どっちなんでしょう。
自分でもよくわかりません。

A.我は「かわいい」キャラだよ。
でも生きかたカエルには「おまぬけ」キャラって言われた!
キャラって不思議だね~

*生きかたカエルから補足*
キャラは便利に使い分けるためにあるものだとカエルは考えます。
したがって、どっちでもよく、どちらでもなくてもよく、キャラを捨ててもいいし、増やしてもいいのです。
あなたはあなたです。

update 2024/10/8
Q.大人は「フツウにしなさい」というけれど、フツウってなんですか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.大人って、いっつも「フツウにしなさい」っていいます。
聞くけど、フツウってなんですか?
誰が決めたものですか。
答えられますか。
こんな質問をするのは私が傲慢だからでしょうか。

A.実にいい質問です!
こんな質問をするのはあなたが賢くて、本質をちゃんと考えられるからだとカエルは思います。
「フツウ」は「シコウテイシ」の主な症状ですが、「シコウテイシ」に陥っている本人に自覚がないのが特徴です。残念ながら、人間界の大人の間で「シコウテイシ」はかなり蔓延していると思われます。

update 2024/9/19