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タグ哲学
Q.子どもの時から成仏に憧れている。なぜそう思うのだろう…
この記事の担当 所長室

Q.「成仏したい」って1日1回くらい思います。私は今生きているはずなのですが、子どもの時から成仏に憧れています。なぜ、生きているのに成仏したいと思うのでしょうか…。楽になりたい、救われたいという思いが強すぎるから??

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update 2025/11/9
Q.前質問した者です。回答を見て、社会よりまず私を大切にしていいんだと思えました
この記事の担当 ウ・サギ

Q.「Q.穏やかに生きるのも安楽死するのもどちらも選べる世界になってほしい。どう思いますか。」の質問者です。
ウ・サギさんの回答を見て
無理に社会と向き合わなくてもいいんだ
社会よりまず私を大切にしていいんだ
そう思えました
ありがとうございます。

A.なるほど…!?ウ・サギの回答がどうよりも、質問者さん自身に自分を大切にしようとする気持ちがあって、そこがちょっと元気になったというか、改めて輪郭がくっきりしたような現象だと受け取っています。
社会というのは、なんだか外部のことにも聞こえる言葉ですが、つまり「私たち」のことだとウ・サギは思っています。だからまず「私」に適切に優しくするところから、その私が少しずつ「私たち」に広がっていく世界であってほしいと思います。

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update 2025/11/4
Q.穏やかに生きるのも安楽死するのもどちらも選べる世界になってほしい。どう思いますか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.私は、この世界では安楽死どころか、穏やかに生き延びることすら過酷だと感じる。
穏やかに生きてゆくことも、穏やかに安楽死することも、どちらも選べる世界になってほしい。
叶わないのかもしれないけど、
切実に切実に願ってしまう。
どう思いますか。

A.読んでいる人に誤解を招かないように補足を少し説明すると、穏やかに生きることが可能な社会設計にし、安楽死において弱者の排除が起こらないのを最大限配慮した上での、穏やかな安楽死を選べる世界を切実に願っている、というのがここで望まれている安楽死の肝となっています。(ウ・サギはそう理解しました)
また、質問の趣旨は、安楽死制度についてのディスカッションではなく、それぞれの気持ちや自分のあり方が尊重される世界であってほしい、という願いだとウ・サギは受け取りました。願うことは自由ですし、補足を読んだ印象としては、質問者さんの人生経験や愛情に基づいた祈りとして「穏やかに安楽死するのが選べる世界」があるのを感じています。そこに含まれる切実さはひしひしと伝わってきますし、どう思うかと言われたら、質問者さんがそう感じるのは理解できるし、これまで生きてきたこと・考えてきたことをリスペクトする気持ちになりました。
それら全てを受け止めた上で、ウ・サギの感覚もちょっと書かせてもらうと、穏やかに安楽死を選べる社会設計を考えるのに自分がリソースを割ける日は来ないだろうとだけは感じています。それは安楽死への賛成反対の話ではなく、(世界規模で考えるととくに)最低限の暮らしさえ守られない人があまりに多すぎて、それに対して自分は最低限を守られているのにかかわらずあまりに力不足で、一生かかっても最低限を全ての人に保障しそれを維持するだけで精一杯・・・どころか、そこまで行けそうにないと感じているからです。まあ勿論やれると信じているからやってはいるんですけどね。
ただ、こういった個々の願いや気持ちを語れる場があること、それについてオープンに対話の機会があることは超大切だと思っています。質問ありがとうございました。

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update 2025/10/27
Q.どうして私は親から離れられないんですか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.どうして私は親から離れられないんですか?小学生くらいの時から、親に迷惑をかけたくなくて早めの自立を目指していて、でも自立しようとするとそんなことしなくていい、一生親のお金で暮らせって言われるし、かなり疲れ果てています…。

A.「どうして」という問いはとても興味深いものだとウ・サギは思っています。どうしてという発想は「本来ならこうできるはずなのに」という理想や想定があることで登場すると思うからです。親から離れられない方が普通と言われていたり、できないなら絶対にできないなりの理由があるのだと捉えられる世界なら、「どうして」とすら思わなかったり、「どうして」も自己嫌悪などの伴わない純粋な自己分析の言葉になるような気がします。
話がズレてしまって失礼しました。できないのは、しない方がまだトータルでは負荷が軽いのか、するエネルギーが足りていないか、しないことが実は一つの意思表示なのか、いろいろな説があるとは思います。全然違うかもしれないし、混ざっているかもしれません。でも自分のモヤモヤや引っかかりって本当に大切なことなので、ちゃんと引っかかり続けること、掘り下げてみようとすることは自分を大切にする行為だと思っています。

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update 2025/10/25
Q.愛されたい。どうすれば愛してくれる人と出会える?
この記事の担当 所長室

Q.どうしようもなく愛されたいです。いまは愛されている実感がなく、何者でもない自分が悲しくて、死にたくなります。どうすれば愛してくれる人と出会えるでしょうか。何か積極的に行動したいです。

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update 2025/10/23
Q.昔の自分と今の自分との乖離をどう受け入れようか悩んでいる
この記事の担当 ウ・サギ

Q.昔の自分と今の自分との乖離をどう受け入れようか悩んでいます。どうにか折り合いをつけたいのですが、どうしたら良いでしょうか。

A.折り合いをつけたい、というのがウ・サギ的には好きな発想でした。あくまでウ・サギの感覚ですが、心の悩みはすっきり解決するものは少なく、折り合いを見つけてどうにか今日を乗り越える繰り返しなのではないか?と思っています。
昔の自分と今の自分の乖離があるかと問われれば、ウ・サギも勿論ありますが、普段それを意識することはなくて・・・。質問者さんの受け入れがたさのようなものがどこからくるのか(感覚については補足でなんとなく受け取れたつもりです)想像を巡らせているところです。アイデンティティの形は、今の自分だけをアイデンティティとするタイプ、過去と今の連続体として捉えるタイプ、そもそもあまり考えないタイプ等々いろいろありそうだなあとか、考えが浮かんでいます。
ちなみにウ・サギは変化(昔と今の乖離)の成り立ちや理由について基本全部説明できるとは思います。ライフステージは変わるし、そうなると生活を占めるものや優先順位は変わり、どんな時を過ごしていようが何かしらの経験は積み重なって、新しい情報が入り自己理解は更新され、興味や好みも移ろっていきます。乖離というよりは、歴史が進んでいくといった感覚があるかもしれません。だから、自分の歴史をひとまず観測・記録しておくイメージで乖離を受け止め、気が向いたら歴史研究をしてみるのはどうでしょうか。最近、世界史での歴史観の変化を知って(昔は美談とされていたものが、マイノリティ側から見ると負の歴史だったよという面が強調され始めているという話)、そういう部分も含めて歴史は面白いと興味を持ち始めているウ・サギです。

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update 2025/10/18
Q.つかえる?ではなくつかえない!オトナ図鑑にのれそうな大人ですが頑張って生きてます
この記事の担当 生きかたカエル

Q.つかえる?オトナ図鑑には残念ながら乗れそうにありませんが、つかえない!オトナ図鑑にはなんとか乗れそうな取り柄の無い大人ですけど頑張って生きてます。偉いでしょ。えへん。

A.カエル的には使えないオトナはいないというのが持論です。世の中にあるものはすべて資源なのです。自分では取り柄がないと思っていても、他の人から見ると使えるものを持っていたりするものです。それだけ、人は多面的であり、人それぞれ見え方や価値も違うというのが、世の中のだいご味なので、自称や自己評価はとても一面的なものなのです。他者へのリスペクトと、ちょっとした自負がぐるぐると循環することで世の中が穏やかになることをカエルは願っています。

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update 2025/10/18
Q.幸せの後には絶対不幸なことが起きると思ってしまい幸せが怖い
この記事の担当 ウ・サギ

Q.幸せの後には絶対不幸なことが起きると思ってしまい、幸せが物凄く怖いです
少しでも幸せな時、絶対後で不幸なことが起きるとずっと考えてしまいます
不幸なことが起きたら、過去に幸せだったことを理由にしてしまいます
どうすれば良いのでしょうか?

A.幸せなことが起こっても、安心して幸せを感じることもできないということですよね・・・それは確かに困ってしまうだろうと感じました。その理屈をひっくり返すと、不幸の後には絶対幸せが来る、と思えなくもない・・・?とも感じましたが、幸せの分だけ反動として不幸が起こる、というのが強い観念のようなものとして在るのだと受け取っています。
でも幸せであるというのは、幸せを失うかもしれない恐怖といつも隣り合わせである、というのも一つの事実だとは感じます。だから逆に、幸せを幸せとしてのんびり味わうのも、物事の良い面だけを見ているアンバランスな見方といえるのかもしれません。といっても、都合のいい事実だけを見たり、甘い見通しをもったり、そもそも何も考えなかったりすることで、人は自分の心を保っているのも間違いないわけで・・・そういう機能(自分に都合のいい部分にフォーカスして他の可能性を切り捨てる機能)がうまく働かなくなってしまっている、と考えると、それはこれまでの経験が影響していたりするのだろうか?と感じたりもしました。自分に都合のいいように考えて油断していたらとても痛い目に遭った、という経験が重なれば、自分を守るためにはいつも不幸に備える方が合理的である、となるかもと思ったのです。
ちなみにウ・サギは不幸なことが起きたら、神様のせいにしちゃいます。神様がいるかは別として、何が起きるかというのは自分の努力や行いだけでどうにかなる範囲は少なくて、いろんなものの巡り合わせでたまたま起こってしまうのだとはとても思っています。

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update 2025/10/14
Q.カッコウのヒナの絵本を読んで、血の繋がった人に育ててもらうことがすべてではないと思った
この記事の担当 ウ・サギ

Q.血が繋がった親に育てられなかった子供は不幸だと言う人がいるけれど、カッコウのヒナの絵本を読んで、血の繋がった人に育ててもらうことが生き物のすべてではないのではと思った。

A.血の繋がりにこだわるのは人間だけなのでは?とウ・サギは思っているのですが、どうなのでしょうね…。カッコウ(別の種族)のヒナでも気づかず子育てをするくらいなので、自分の血を引いている・引いていないに気づく生き物がいるとはあまり思えないような…。自分の種の存続という話で考えても、血縁がないなら育てません!とか、血縁がない相手に育てられたら不幸になるとかは、全く合理的ではないと思います。
だから血の繋がりに意味があるなんて、人間のつくった感情的な妄想なのでは?とウ・サギは思っています。血の繋がった親に育てられて苦しんでいる人だって山ほどいます。「親は産んだ子を無条件に愛し育てるもの」といったものが普通となっているが故に「普通じゃない育ちの自分」に苦しむことはあると思うのですが、育ててくれた相手に血の繋がりがあろうとなかろうと、尊重されて育てば幸せで、尊重されずに育てられたら不幸だとウ・サギは思います。もっと言うと、子どもが幸せに暮らせるかは、親や養育者だけの責任ではなく、取り巻く環境の全てが関係してくるとも感じています。
あとそもそも、「血の繋がった親に育てられなかった子どもは不幸」と、他の人の幸不幸を属性情報だけで勝手に決めるのがまず変な話だし、失礼な話なのでは?と世の中にもやもやしてしまいました。

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update 2025/10/12