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タグ哲学
Q.選択肢が多すぎると困る感覚について、どう思いますか?
この記事の担当 生きかたカエル

Q.ふと、選択肢が多すぎると困る感覚について考えてみました
選択によっては苦しい思いをするリスクや
一つ選ぶと他を選べないリスクなど、
選択のリスクがあるから困るのかもしれない
と考えました
選択肢が多すぎると困る感覚について、どう思いますか?

A.なるほど、選択肢が増えるとはそれにともなうリスクの想定も広がるから選択肢が増えることは負担軽減の要素よりもむしろ、プレッシャーや不安が増す要素になってしまうという推測でしょうか。確かに、そういった側面はあるかもです。
その推測をもとに考えてみると、できるだけリスクの少ない選択肢をたくさん想定しておくと困り感は減るのか?とカエルは考えました。ただ、カエル的にはまだ起こっていないことへの予測はあくまでも予測に過ぎず、実際には起こってみないとわからないことがたくさんあったり、そもそも一匹のカエルが予測できないこともものすごくたくさんあるので、どちらにしても限界があるよ…と自らの予測力に白旗を上げたくなります。ひょっとしたら、この自らの予測力や選択力などの限界を受け止めて、白旗を上げることが、困ることを手放すことにつながっているのかもしれません。(何事も深めていくのは気づきが合って興味深いです)

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update 2025/7/2
Q.自分の素が分からなくなってしまってとにかく自分でいる事が辛い。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自分の素が分からなくなってしまってとにかく自分でいる事が辛い。一人でいても気が休まらず人といると緊張して疲れる。これが友達がとかじゃなく家族も皆だから誰とも心を通わせられなくてしんどい。こんな症状どこにも載ってなくて、私だけじゃないですか?

A.補足に「きっと自信がなくなってしまったから」という自己分析があったので、その表現から、ウ・サギはいろいろと想像を巡らせました。つまり、自信を喪失していない時期は、ある程度安定していたということかと思うのですが、安定しているときでも、本当に自分は自分でいいと思えてる場合と、自分には「これがあるから」大丈夫と条件つきで自分を支えている場合がある気がウ・サギはしています。(たとえば、夢や目標があるから、こんなことができるから、学生や社会人などの身分があるから、恋人がいるから・・・等々)
もし条件つきの安定だった場合、自信らしきものを感じればまた安定しても、それもまた何かあれば簡単に崩れるかもしれない・・・?とウ・サギは思います。だから自分がわからなくなった今、自信ではなく自分を見つけてみるのをおすすめしたい気持ちになっているのですが、つらくて疲れている状態が続くのも困りますよね……。難しいです。
ただ、自分に起こることは、症状に当てはまっても何にも当てはまらなくても、周りの環境(社会の風潮含む)と自分の心の何かしらの相互作用で生じているものなのは確かです。だから自分がどんな世界で、何を感じて、何を優先して生きてきたのかなどを振り返ってみると、何か大事な発見がありそうな気もしました。
全然的外れなことを言っていたらすみません。

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update 2025/6/28
Q.泣くのを否定されるのは納得できないが周りは苦痛なのかなと思う。感情を顕にすることをどう思う?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.誰でも泣きたいとき安心して泣ける世界になってほしい、泣くことすら否定されるなんて納得できない。そう思うけど、泣かれる側の人や、周りの人にとってはやっぱり苦痛なのかなとも思います。泣くことに限らず、感情を顕にすることについてどう思いますか?

A.基本的には、感情の表現は自由だとウ・サギは思います。ただ、感情というのは(とくに怒りだと)時に強いエネルギーなので、いつ誰にどう出すか、出すときにどのような配慮をした方がいいかは、考えていきたいところ・・・とは思うのですが、感情はまずは自由にのびのびと出してから、徐々に調整を覚えていくものだとウ・サギは思います。
出すことも十分に許されずに、コントロールだけを覚えてしまうととても苦しくなってしまうので、そういった背景がある人が多いことを考えると、配慮しよう論はあまり出したくないとも感じます。配慮といっても、配慮するのが最優先ではなく、無理ない範囲でやることが一番大切、とは強調したいです。

感情の表現や扱いのポイントは、感情はあくまで自分から湧き出るものである、というのをお互いに意識することなのかなとウ・サギは思っています。
勿論感情というのは、外部の刺激によって(叱責かもしれないし、何気ない発言かもしれないし、何かを見てかもしれないし・・・)起こるものではあるのですが、「お前の言動が私を泣かせた。お前が悪い」みたいなのはたぶん違って、「この出来事を私はこう感じ取って、こういう感情が湧きました」という受け取り手の中で起こるものだと思います。といってもそれは勝手に受け取った側が悪いという話ではなく、感情は良いも悪いもなく自然に湧いてきちゃうものなのだから、アイメッセージで伝えた上で、お互いにとってほどよい配慮や理解を見つけていきませんか?そして、配慮し合いはなるべく優しくやっていけるといいですよね。とウ・サギは伝えたい感じです。
誰かが泣いたことによって感情が動揺する人がいて、自分の動揺に対して配慮を求めたいなら、それはその人がアイメッセージで伝えるべきことです。「泣けば許されると思っているのか」など、勝手に悪意的解釈をして、それを真実だと決めつけるような行為はマナー違反だ…!とウ・サギは言いたいです。

とはいえ感情の取り扱いについてはウ・サギもまだまだ未熟で至らぬ点ばかりだし、社会全体に学ぶ機会も尊重される機会も全然足りてないと感じるので、もっとみんなで考えていきたいと思いました。
残念なことに、今は強い側が弱い側を無理やり押さえつけたり、決めつける場面が多く見られるので(本来は、双方が配慮するにしても、強い側がより多く配慮すべきだと思います)、それはとてもとても問題だと感じています。

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update 2025/6/28
Q.好きなものや目標があるが、そこそこの頻度で求めているはずのものを全て拒否したくなることがある
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自分には好きなものや欲しいもの、こういうことで生きていきたいという目標があるのですが、そこそこの頻度で求めているはずのものを全て拒否したくなり、気持ちの悪い感覚も同時に起こります。どうしたら一直線にやりたいことができるのか知りたいです。

A.(補足も読んだ印象も含めて)好きなものや欲しいものへの思いが一直線すぎるゆえに、そのような現象が起こっているようにウ・サギは感じました。
現実というのは、たとえいくら努力したとしても、目標通りにいかないことも多いものかと思います。自分の目標や欲しいもののイメージが強くあるのも、それはそれでどうしようもないものかと思いますが、願いが強いほど現実とのフラストレーションは大きくなり、ただ過ごしているだけでも不安や消耗が増えて、パフォーマンスが不安定になるのは必然にも思いました。
だから、どうしたら一直線にやりたいことができるかの質問に戻ると、変な話になりますが、目標を小さくしたりイメージを広くしたりするのが効果的なのかもしれません。
たとえば好きなことを仕事にするにしても、それ一本でいく道もあれば、副業的にやる道もあれば、好きなことを部分的に活かせる仕事につくなど、いろんな形があるかと思います。何が向いているか、どの形だと自分を活かせるのかは、やっていないと見えない部分もあるかと思いますし、何かのきっかけで全然違う道に興味をもつこともあるかもしれません。今の自分のやりたいことやイメージは、これまでの自分の経験や気持ちという限定的なデータから産まれているものであり、経験を重ねると変化していくものだとウ・サギは考えています。
あれ、どうしたら一直線にやりたいことができるか?からどんどんズレていますね・・・すみません。どんな道も一直線であると同時に、必要な回り道な気がして、よくわからなくなってきてしまいました。

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update 2025/6/25
Q.言葉が意図と違う形で相手に伝わってしまわないかと不安。所長さんはどんな考え方で言葉を使ってる?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.私は、実際に思ったことと、それを言葉にすることの間には、大きな壁があると感じます。発した言葉や文が、自分の意図と違う形で相手に伝わってしまわないかと不安です。たくさんの質問に答えている所長さんは、どのようなで考え方で言葉を使っていますか?

A.言葉は誰かを元気にする力にもなれば、時に凶器になることもあるし、誤解されると自分が結構ダメージを食らうことになる場合もありますよね……。だから、言葉について不安を感じるのは、もっともなことであるとウ・サギは感じました。
質問への答えになるかはわかりませんが、ウ・サギは生きづLABOの質問回答については、一度自分の書きたいことを書きたいように書いてから、一晩以上寝かせて内容や表現を修正しています。微修正で終わるときもありますが、ほとんど全部消して新しく書くようなときもわりとあります。
①自分の目線で感情や感覚のままに書く
②周りの(質問してくれた相手や一読者の)視点からその文章を読んでみる
という、①作者の自分と、②編集者の自分の共同作業で言葉を扱っているような感覚です。
そして、作者ウ・サギと編集者ウ・サギがうまく働くためには、日々のトレーニングが必要です。変な表現をしてしまっても意図を汲み取ってくれる相手(少なくとも、誤解したまま傷ついたりして黙るのではなく、どう感じたか教えてくれるだけの信頼関係がある相手)とやり取りをして、自分の思うことを表現する練習をし、なるべくいろんな人の受け取り方や感じ方を知る機会をつくって、編集者としての視点を広げようとは思っています。それでも全然読み取りがズレることとか、誤解を招くような表現をしていることもきっとたくさんあるのだろうと思います。しかも最近はちょっとトレーニングを怠り気味な気もします・・・。
また、言葉はあくまでも自分の思いを伝えるための不完全な「道具」であり、言葉にした時点で、思いは多かれ少なかれ切り取られ、ズレてしまうものであるように感じます。だから言葉以前に、私はあなたのことを否定しません、だから言葉だけで捉えずに言葉の背景をお互いに考えていきませんか?という、目に見えない信頼や合意を形成するのが大切なのかもですね。自分がそれをできているかの自信はないですが、善処したいとはいつも思っています。

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update 2025/6/2
Q.人間の本来の寿命は55歳くらいだと聞いた。それに抗ってまで長生きするのは良いことなのだろうか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.人間の本来の寿命は55歳くらいだと聞きました。それが現代では、医療の発展によって80歳くらいまでは生きられるようになったと。でも、本来の寿命に抗ってまで長生きするのは、肉体的には可能だとしても、良いことなんでしょうか?

A.本来というものの定義は諸説ありそうですが、現代の生活で(過度な肉体の酷使なく、栄養バランスが最低限とれた食事をとり、歯磨きなどをちゃんとして…)、手術などの高度な医療を使わない場合、寿命が55歳くらいということでしょうか。
長生き=良いこと、では全然ないとウ・サギは思います。でも「これをすればまだ生きられる」という方法があるのに、それを選ばないというのは、当人が望んでも、周りの人にとって心の負担になる場合がありそうだとは感じました。良くも悪くも、医療に限らず私たちは本来とか自然とかからは遠ざかってしまっているので、合意がとれる(誰かの心が深く傷つかない)あり方が、しいていうなら「良いこと」になるのかなとウ・サギは思います。
だから人や状況によって、抗わない方がベターな選択になるときもあれば、抗う方がベターな選択になるときもある、というのがウ・サギの考えです。

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update 2025/5/25
Q.自由が怖い、嫌い、疲れた。誰かに支配されたい。そう思うのはだめなことですか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自由が怖い、嫌い、疲れた。誰かに支配されたい。そう思うのはだめなことですか。

A.全然だめじゃないと思いますよ。なんなら、生きづLABOでも、やみーペンは「自由は好きじゃない」と言っています。
そして昔は実際に支配されにいってもいた気がしますが、今は自分をほどよく洗脳してくれて、自分を傷つけてこないものを選んで、流されているようなイメージがあります。
「支配されたい」という意識ではなくても、「流されてる方が楽」とか「決めてほしい」という人は実は結構多い(むしろたぶん多数派)とウ・サギは感じています。
あと、あなたのいう自由とはもしかしたら話は違うかもですが、ウ・サギ的には今の時代は「個人の自由でなんでも選べます」みたいな雰囲気があるだけで、実際のところはフラットな選択肢は少ない(例えば、家から出るのが簡単じゃない、学校に行かないとプレッシャーや不利益がある、フルタイムで働くという形じゃないと生活が難しい、空気を読まないと攻撃される、死にたいと言いづらい…etc)と感じます。だから「怖い、嫌い、疲れた」という感情はすごく自然な反応に感じましたし、それはあなたの意識の中では「自由」を対象にした思考として暴れてたとしても、その奥には経験や感覚や、言葉にできない思いの集合体があるイメージを抱きました。(ウ・サギは、思考は基本的に感情や感覚の後付けで生まれるものなのでは?と考えています)
だからどんな思いもだめじゃないし、論の是非ではなく、どうしてそういう思いになったのかを語れることが大切なのだとウ・サギは感じています。

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update 2025/5/25
Q.5月で30歳になる無職です。30歳になっても、自分は自分でしょうか?
この記事の担当 所長室

Q.5月で30歳になる無職です。無職のまま30歳になることについて重さを感じるような気がします。30歳になっても、自分は自分でしょうか?

A.ウ・サギは数字に妙に惹かれる民で、「○○歳になってしまった…」としみじみ複雑な気持ちになったこともあるので、なんだか共感しました。本当は産まれてからの年月は毎日平等に刻まれているのに、年齢が増えるタイミングでだけ何かを感じるなんて非合理的だなとは思うのですが、キリのいい数字はちょっと特別に感じます。たぶん昔の自分が「○○歳」についての何かしらのイメージをもっていて、その自分のイメージと今との乖離に戸惑っているのかな?という気はしています。
何歳になっても、ウ・サギはウ・サギだったので、あなたもあなただと思います。せっかくなら、他の所長にも話を聞いてみましょう。

*うさえながから*
誕生日おめでとう~!誕生日のケーキ我にも分けてね!

*生きかたカエルから*
そりゃあ、いくつになっても自分は自分、カエルはカエルであるという不変なものであると同時に、刻一刻と変化していく流動的な存在でもあります。無職の重さもあると思いますが、誰でも存在はそれなりの重みがあるものです。誕生日という節目に自分という存在へ思いをはせるのは、まさに自分が自分である所以だとカエルは思いました。

*やみーペンから*
やみーペンも何歳になってもやみーペンだし、やみーペンの中には3歳児のやみーペンがいるよ~。

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update 2025/5/25
Q.Xジェンダー?の中学生です。配慮してもらうためカミングアウトしたいけど怖いです。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.Xジェンダー?の中学生です。学校では男女で扱いが違うとき、男女で分かれるときがあります。今は誰にもカミングアウトできず、過ごしにくいです。ただ、配慮してもらうためには言わないといけないです。なんで?どうして?と友達に聞かれるのも怖いです。
一人、言えそうな前担任がいます。その先生には、自分が同性が好きということを伝えて、全然いいじゃんと言ってくれました。なので、言うならその先生です。ただ、言ったあとに、違う先生や友達に伝わるのが嫌です。また、今まで友達だった人と関係が変わるのも怖いです。いや、優しい人たちだから、そんなことないかもしれません。
どうすればいいと思いますか?
あ、Xジェンダー?と?をつけた理由は、まだ自分の性別の言い方が決まってないからです。感覚的にはどっちでもない、です。もはや日本語の問題では・・・?と思い始めてますが。
(編集注:「質問入りきらなかった」という言葉が補足にあったので、補足の内容も質問として公開しました)

A.言えそうな大人がいるなら、その大人を手掛かりにするのは大いにありだと思います。いわゆる常識から少し距離のある個性について、すべての人たちが理解をしてくれたり、受け入れてくれたりするわけではないと思います。どう思われるのか怖く感じるのもとてもよくわかります。ただし、一見無理解な反応や拒否的な感触には「よくわからない」「知らない」ことが大きな理由のようにカエルは思っています。だから、わかってくれそうな人からじわじわと理解を広げていったり、もしも、一人では受け止められない反応があったときに報告したり、一緒に考える人や場を持つことは大きな意味があると思っています。
例えばXジェンダーという呼び名も一つの表現ではありますが、「?」がついているところを見ると、あなたがもっとしっくりとくる表現が見つかるかもしれません。実際には一人ひとりの性別への認識や感覚はそれぞれ異なるところが、何となく女と男の二種類に分けられていることで、苦しさを感じる人は意外とたくさんいるはずなので、こうした質問をカエルは大歓迎しちゃいます。

update 2025/5/21
Q.もう何年間も、自分の中も人生も滞っていて、全てが乖離している感覚です。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.もう何年間も、自分の中も人生も滞っていて、全てが乖離している感覚です。あっちを点けたらこっちが消える。好きなこと・やりたいことにもストレスを感じる。これはなんなんだろう…

A.なんなのかはウ・サギも今考えを巡らせているところですが、(補足に書いてあった内容も含めて)感覚を丁寧に言葉にしているのに感心しました。
なんとなく思い浮かんだことを書いていくと
・感覚を細やかに感じて言葉にできるタイプよりも、大雑把になんとなく言葉にするより行動しちゃうタイプの方が、なんか生きやすいっぽいのはある気がする…(だから、これだけ言語化できる=生きづらい証明、という感覚はあるなあ)※私見です
・それなりにしっくり生きていくためには、インプットした分とだいたい同じ量アウトプットするのがポイントだとウ・サギは感じている。質問者さんはインプットが多いわりに、アウトプットが間に合っていない印象があるので、それが「滞り」という感覚になっている…?
インプットというのは、何かの出来事や外部の刺激に対して、湧いてきた気持ち、感じたこと、その後考えたこと、というイメージです。アウトプットは色々な形がありますが、例えば極端にいえば怒りで暴れ狂っちゃう、リストカットする・・・etc、健康な方法であれば体を動かす、喋る、文章にする、絵など芸術で表現する・・・etcという感じです。それらは一人で出来るものも多いのですが、自分を理解をしてくれる相手、自分の表現を受け止めてくれるだろう相手がいると感じる中でやるのと、そうじゃない中でやるのとでは、効果が違うようにも思います。また、言葉にするタイプの場合は、時にフィードバックをもらったほうが、より自己理解、自己表現が進むこともあると思うので、その機会も十分にあるかないかで変わってくる部分もあるように感じます。
とはいえこれはあくまでウ・サギ説なので、「全然違うよ」とか「いや、ここはちょっと違う」とか思われているかもしれませんが、その「違う」を言葉にしていくと、意外と自分の中で整理できたり気づけるものがあるともウ・サギは感じてきました。よかったらまた質問をください。

update 2025/5/15