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Q.所長たちってネガティブ(自傷、死にたい等)の質問だけじゃなくて、楽しい(食べ物等)の質問も受け付けてるの?他のこういう感じのサイトは楽しい質問とか受付けてないからなんで?
A.(世間一般でいう)ネガティブなことも、楽しいことも、我々が生きていくうえでどちらも大切なテーマだと思っているからですよ。両者はつながっていて、どちらも研究所にとって重要な研究素材なのです。ちなみに、カエル的にはネガティブと思われるテーマにこそ多くの真実が隠されていると思っているところはあるのですが、楽しいと感じることの中にも生きることへの本質的が多く含まれていて、これからもどちらとも考えていきたいですね。
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Q.精神的な事情で病院にかかっています。カウンセリングを受けるのもいいかも、と先生に言われましたが、迷っています。カウンセリングくらいしかもう打つ手はないのかもな、なら受けようかな…という気持ちなのですが、こんなときはどうしたらよいでしょうか。
A.カウンセリングといっても方向性は実はバリエーションがあるので(傾聴、EMDR療法などのトラウマ治療、認知行動療法などの行動療法・・・etc)、一概に何と言うのは難しいですが、ウ・サギがカウンセリングを利用した経験についてまずは書きますね。
ウ・サギが話した心理士さんは傾聴タイプで、ひたすら受容的に「うん、うん」と聞いてくれるのがベースでした。軽いアドバイスっぽいものは時々ありましたが、向こうから踏み込んだ質問をされることや、踏み込んだ意見を言われることは全くなかったです。だから、否定されずに話せる場、身近な人に漏れることなく個人的なことを話せる場としては、とても役立ってくれました。一方で、治療と呼べるものや、回復につながるものだったかというと、そういった側面は薄かったと思います。ウ・サギの場合は完全に休んでいたところから徐々に外の世界に出ている時期で、生活に結構ストレスがあったので、その生活を支えてくれるものとして、カウンセリングがあったと今振り返ると思います。(徐々に自信がついたり回復のきっかけをもらえるのは、むしろ生活の方からだったと思います)
周りから聞いた話では、カウンセリングが回復の大きなきっかけになったという場合もあれば、自分一人のために時間をとってくれて構ってもらえるのが嬉しい!くらいのシンプルな役立ちもあれば、逆にカウンセリングでイヤな思いをした、という場合もあります。
つまり結論としては「カウンセリングがどんな風にどれくらい役立つかは人それぞれ。でも、最低限信頼できる、相性の合うカウンセラーさんと話せるなら、何かしらの前向きな価値はある」というのがウ・サギの考えです。
だからウ・サギとしては、それほど期待せず試してみて、合わなかったら辞める、というのはどうでしょう?と思いました。何がどう役立つかはやってみるまでわからないし、精神のことに即効薬のようなものはたぶんないと思うので、無理ない範囲で、いつでも逃げる準備OKで(治療に限らず)いろいろ試すのはわりとおすすめです。
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Q.会話をうまく広げられません。特にリアクションが苦手で、話を盛り上げることが難しいです。どうしたら得意になれますか?
A.それはウ・サギが苦手で、生きかたカエルは得意なやつです。だから苦手側と得意側から、どうしたら得意になれるかを考えてみたいと思います。
*ウ・サギ*
それが苦手で困ってきたウ・サギの研究結果としては、苦手から得意までを目指すのはけっこう大変なので、赤点じゃなければいいくらいに自分へのハードルを下げています。笑顔で相槌打っていれば、もうそれでOKなはず・・・と。あと、会話はみんなの共同作業で盛り上げるものなので、会話が広がらないのは自分だけのせいではない、と思ったりもしています。
テクニックや工夫でどうにかするとしたら、幅広いジャンルを少しだけでもかじっておくと(例えば知らないアニメでも、「○○ってキャラクターがいるんでしょ?」とか一言でも具体的な返しができると)、けっこう盛り上がりやすいです。
もしそういう次元じゃなく、素敵なツッコミや明るいノリが必要という話なら、ウ・サギの力量では何もアドバイスはできそうにありません…。お手上げです。
*生きかたカエル*
いや~、ウ・サギに指名されましたが、カエルは努力してやっているわけではないのでコツや得意になる方法を尋ねられてもすぐには思いつかず困りました。改めて考えてみて思いつくこととしたら、本当に興味深いと思って聞いているかどうかが関係している気がします。何でもいいので、自分が面白いとかもっと聴いてみたいという点を見つけて率直に「それもっと知りたい」「なるほど~」と思う気持ちを出してみると意外と広がりそうな気がします。こんなこと言ったら失礼かな?とか、変な奴だと思われるかも?という自分への評価を恐れる気持ちがあると、うまくいかないかもしれませんね。素直な子どもの気持ちが大切かなと思いました。
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Q.どんな人にも休みたいときに安心して休める選択肢があればいいのに。その選択肢があれば、今この瞬間、休んでいると扱われる状態にある人も、「みんなつらくても嫌でも苦しくても頑張っているのに」から解放されると想像するのですが、どう思いますか。
A.とてもその通りだとウ・サギは思いました。本当にそうだなあという気持ちで、「その通りすぎる」以外の言葉がすぐには出てこないくらいです。
どうしてここまで、つらくても嫌でも頑張れ、みたいな風潮が強まってしまったのでしょうかね……。休みたいときに休むことに何か問題があるとしたら、全員が休んだら社会の機能がストップしてしまう、働き者の誰かに負担が集中してしまう可能性がある、くらいかと思うのですが、休みたいときに休めてみんなが健康な心身を保っていたら、必要な助け合いや分担は自然とできる気がします。
何に追われているのか、何を課されている(ように感じている)のか・・・何か、本来は必要ないものが私たちを息苦しくさせている気がしてならないウ・サギです。
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Q.人に相談するようなチャンスがあったとしてもなんとなく「俺だって・私だって大変なのに」って気持ちが透けて見える瞬間があって何も言えなくなってしまいます。そういう人たちの基準の中に取り込まれてしまう感覚が怖いんです。上下関係ができてしまう感じ。
A.なるほど、それをわかってしまうのですね。
わかってしまうのは仕方ないので、せっかくならいい方に使いたいものです。おっしゃる通りそういう基準に取り込まれるのはおそらくいいことはないと思うので、そう感じたときには相談するのは避ける方がよいとカエルは思います。もしくは、そうしたリスクを念頭に置いたうえで、実験的に相談してみて相談相手を選ぶためのデータ収集をする方法も一つかと思います。
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Q.自分が普通ではないことを思い知ってとてもつらくなります。みんなみたいにできない自分がすごく嫌いです。
いわゆる、普通に憧れていて中学は行ったり行かなかったりを繰り返していたのに全日制の公立高校を自分で選んで受験しました。(うちの地域では公立の高校に行くことが一般的でした)もう3年生になりますが、2年の途中からだんだんしんどくなり、疲れが酷く体力がなくなり思うようにやらなければいけないことができない生活を続けています。たまに休みながらこの生活を続けてきましたが、それにも疲れてきて全部放り出してにげたくなってしまっています。すっごく逃げたいけれどここで辞めるのは少し悔しい気持ちもあったりします。うまく生きられない、やっぱりみんなと同じ生活ができない自分がとてもきらいです。
A.何を「普通」とするかは諸説ある気がしますが(あなたがこの話で言っているのは全日制の公立高校に行くことですね)、「普通」には、そうありたいと思わせる魔力、そうでなければまずいと不安にさせるパワーがどうやら強くあるようだ、というのは経験から感じます。実際に普通と呼ばれるものからズレたら不利益がある場合もありますし、時に無言で、時に露骨に「普通じゃないのは良くないこと」というような圧を社会が発しているのも、残念ながら事実だとも感じます。
みんなと同じ生活をできる自分でありたかった、そうできない自分がきらい、という気持ちはウ・サギとしては100%受け止めました。ただ、中学高校というのは人によってはかなりハードな環境なので、きっとあなたの何かに合わないのかな…?と感じています。例えば大学だとわりと環境の質が違うので、何か変わることもあるかなあとか、3年生まで来てるなら辞めて高卒認定とってその後の進路に向かうのもそんなに難しくないかも?とか、環境次第であなたの思う「うまく生きる」に近づけるパターンもあるのではないだろうかなんて考えました。でもウ・サギは「うまく生きる」というのは、自分に合った生き方を見つけることだと思っていて、世間のいう普通にみんなが適応しなくてはならない(人が努力して自分を変える)という方向性ではなく、みんなが自分にとっての普通、自然体で生きられるために生き方が多様になってほしい(社会が変わるべきだし、変えていきたい)とは考えています。
とはいえ、憧れは簡単に消えるものでもないだろうし、きっとその中にはあなたの切実な何かが含まれているのだともウ・サギは思います。だから、憧れている気持ちはどこからくるのか、うまくいかないと思うのはどの部分で、何が原因で疲れているのかなどを、誰かと一緒に考えてみる機会があるのが大切なのかな・・・とも感じました。またよかったら質問をください。
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Q.部活に真剣になる人について。下に母との会話を載せました。心に引っ掛かりを覚えて、なんかモヤモヤします。なにが誰がおかしいんでしょうか。
A.会話が見えないと解説が難しいので、補足の内容をここに書かせてもらいますね。
母:部活に一生懸命になって学業が疎かになって困ってる親がいるらしいよ。せっかく進学校に入ったのにって
私:別に部活頑張ったってよくない?それはそれで
母:いいよ?あなたの人生だから
勉強しなくたって別にいいよ?
だったら大学に行く必要なんかないよね
Fランに行くなら専門学校で職を身につけたほうがまだマシだよ
私:、、、、、、
ウ・サギが気になったのは、とりあえず以下3点です。
①勉強を他の何より大切なものだと強く信じていそうな母の価値観
②その価値観を自分以外の人にも押しつける姿勢
③押しつける気満々にもかかわらず、「あなたの人生だから」と表面的には自由を持ち出してくる矛盾
他にも細かいツッコミはいくつか出来そうですが、自分の価値観を正しいと強固に思い、それを察させるような圧で押しつけるのは、多様な考えがあること、他の人にも他の人の価値観や生き方があることを軽視しているとウ・サギは感じます。ウ・サギのあり方も否定されているように感じてモヤモヤしますし、それを親→子という力関係がある中でやるのは本当にやめてほしいところです……。
ただ、逆にウ・サギの考えにモヤモヤする人もいるかと思います。だからどの考えが正しいみたいな話ではなく、大人は子どもに対して(立場の強い人は立場の弱い人に対して)モヤモヤを言ってもらえるような関係、自分と合わない考えだとしてもどうしてその考えをするのかを聞いたり想像する姿勢をもつことが、きっと大切なのだとウ・サギは思います。だからあなたがモヤモヤを伝えても受けつけなさそうな雰囲気が母から感じられるのが、もしかしたら一番のモヤモヤかもしれないですね。
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Q.私は、実際に思ったことと、それを言葉にすることの間には、大きな壁があると感じます。発した言葉や文が、自分の意図と違う形で相手に伝わってしまわないかと不安です。たくさんの質問に答えている所長さんは、どのようなで考え方で言葉を使っていますか?
A.言葉は誰かを元気にする力にもなれば、時に凶器になることもあるし、誤解されると自分が結構ダメージを食らうことになる場合もありますよね……。だから、言葉について不安を感じるのは、もっともなことであるとウ・サギは感じました。
質問への答えになるかはわかりませんが、ウ・サギは生きづLABOの質問回答については、一度自分の書きたいことを書きたいように書いてから、一晩以上寝かせて内容や表現を修正しています。微修正で終わるときもありますが、ほとんど全部消して新しく書くようなときもわりとあります。
①自分の目線で感情や感覚のままに書く
②周りの(質問してくれた相手や一読者の)視点からその文章を読んでみる
という、①作者の自分と、②編集者の自分の共同作業で言葉を扱っているような感覚です。
そして、作者ウ・サギと編集者ウ・サギがうまく働くためには、日々のトレーニングが必要です。変な表現をしてしまっても意図を汲み取ってくれる相手(少なくとも、誤解したまま傷ついたりして黙るのではなく、どう感じたか教えてくれるだけの信頼関係がある相手)とやり取りをして、自分の思うことを表現する練習をし、なるべくいろんな人の受け取り方や感じ方を知る機会をつくって、編集者としての視点を広げようとは思っています。それでも全然読み取りがズレることとか、誤解を招くような表現をしていることもきっとたくさんあるのだろうと思います。しかも最近はちょっとトレーニングを怠り気味な気もします・・・。
また、言葉はあくまでも自分の思いを伝えるための不完全な「道具」であり、言葉にした時点で、思いは多かれ少なかれ切り取られ、ズレてしまうものであるように感じます。だから言葉以前に、私はあなたのことを否定しません、だから言葉だけで捉えずに言葉の背景をお互いに考えていきませんか?という、目に見えない信頼や合意を形成するのが大切なのかもですね。自分がそれをできているかの自信はないですが、善処したいとはいつも思っています。
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Q.学校で一人称が僕や俺などになったりその一人称に合った口調になるのですが、何年か前に「もう少し、女の子らしい言葉づかいをしなさい」と親に言われました。高校生で一人称が僕や俺ってやっぱおかしいですか?直すべきですか?直し方はありますか?
A.一人称はその人のアイデンティティの大切な表現なので、自分が使いたいものを思う存分使ってください。周囲の頭の固い大人は「〇〇らしく」などというもっともらしい理由をつけて、改善を求めることがありますが、それに従う義務はありません。あくまでも、親なりの一つの意見として言っているにすぎないと理解するのが妥当だろうと思います。
多くの人は何となく社会規範に従って同じような一人称を使いますが、自分がもっともしっくりくる表現をしたらいいのだとカエルは思います。日々変わったっていいと思いますし、気分や状況によって言いたい言葉は違うと思います。
もしも、周囲に「それは違う」とか「おかしい」という人がいても、その人の常識や感覚を押し付けているにすぎないとカエルは思うのです。自分のことをどう呼ぶかは自分の問題であり、自分以外の人は一見解を伝えることはできても、強制することはできません。
そして、そう呼ぶことにいちいち理由もないのかなと思います。そう呼びたいからということでいいと思います。だから、一人称を直す必要はないし、直さなくてもいいと思います。これを書いていて、いろんな人がそれぞれの一人称を使ったら、もう少し生きやすい世の中になりそうだ!とカエルは少しワクワクしたので、思いのままに表現することを応援したいです。カエルも自分のことを「カエル」と呼ぶととても自分らしくなった気持ちがしてホッとします。
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