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タグ哲学
Q.人間の本来の寿命は55歳くらいだと聞いた。それに抗ってまで長生きするのは良いことなのだろうか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.人間の本来の寿命は55歳くらいだと聞きました。それが現代では、医療の発展によって80歳くらいまでは生きられるようになったと。でも、本来の寿命に抗ってまで長生きするのは、肉体的には可能だとしても、良いことなんでしょうか?

A.本来というものの定義は諸説ありそうですが、現代の生活で(過度な肉体の酷使なく、栄養バランスが最低限とれた食事をとり、歯磨きなどをちゃんとして…)、手術などの高度な医療を使わない場合、寿命が55歳くらいということでしょうか。
長生き=良いこと、では全然ないとウ・サギは思います。でも「これをすればまだ生きられる」という方法があるのに、それを選ばないというのは、当人が望んでも、周りの人にとって心の負担になる場合がありそうだとは感じました。良くも悪くも、医療に限らず私たちは本来とか自然とかからは遠ざかってしまっているので、合意がとれる(誰かの心が深く傷つかない)あり方が、しいていうなら「良いこと」になるのかなとウ・サギは思います。
だから人や状況によって、抗わない方がベターな選択になるときもあれば、抗う方がベターな選択になるときもある、というのがウ・サギの考えです。

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update 2025/5/25
Q.自由が怖い、嫌い、疲れた。誰かに支配されたい。そう思うのはだめなことですか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自由が怖い、嫌い、疲れた。誰かに支配されたい。そう思うのはだめなことですか。

A.全然だめじゃないと思いますよ。なんなら、生きづLABOでも、やみーペンは「自由は好きじゃない」と言っています。
そして昔は実際に支配されにいってもいた気がしますが、今は自分をほどよく洗脳してくれて、自分を傷つけてこないものを選んで、流されているようなイメージがあります。
「支配されたい」という意識ではなくても、「流されてる方が楽」とか「決めてほしい」という人は実は結構多い(むしろたぶん多数派)とウ・サギは感じています。
あと、あなたのいう自由とはもしかしたら話は違うかもですが、ウ・サギ的には今の時代は「個人の自由でなんでも選べます」みたいな雰囲気があるだけで、実際のところはフラットな選択肢は少ない(例えば、家から出るのが簡単じゃない、学校に行かないとプレッシャーや不利益がある、フルタイムで働くという形じゃないと生活が難しい、空気を読まないと攻撃される、死にたいと言いづらい…etc)と感じます。だから「怖い、嫌い、疲れた」という感情はすごく自然な反応に感じましたし、それはあなたの意識の中では「自由」を対象にした思考として暴れてたとしても、その奥には経験や感覚や、言葉にできない思いの集合体があるイメージを抱きました。(ウ・サギは、思考は基本的に感情や感覚の後付けで生まれるものなのでは?と考えています)
だからどんな思いもだめじゃないし、論の是非ではなく、どうしてそういう思いになったのかを語れることが大切なのだとウ・サギは感じています。

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update 2025/5/25
Q.5月で30歳になる無職です。30歳になっても、自分は自分でしょうか?
この記事の担当 所長室

Q.5月で30歳になる無職です。無職のまま30歳になることについて重さを感じるような気がします。30歳になっても、自分は自分でしょうか?

A.ウ・サギは数字に妙に惹かれる民で、「○○歳になってしまった…」としみじみ複雑な気持ちになったこともあるので、なんだか共感しました。本当は産まれてからの年月は毎日平等に刻まれているのに、年齢が増えるタイミングでだけ何かを感じるなんて非合理的だなとは思うのですが、キリのいい数字はちょっと特別に感じます。たぶん昔の自分が「○○歳」についての何かしらのイメージをもっていて、その自分のイメージと今との乖離に戸惑っているのかな?という気はしています。
何歳になっても、ウ・サギはウ・サギだったので、あなたもあなただと思います。せっかくなら、他の所長にも話を聞いてみましょう。

*うさえながから*
誕生日おめでとう~!誕生日のケーキ我にも分けてね!

*生きかたカエルから*
そりゃあ、いくつになっても自分は自分、カエルはカエルであるという不変なものであると同時に、刻一刻と変化していく流動的な存在でもあります。無職の重さもあると思いますが、誰でも存在はそれなりの重みがあるものです。誕生日という節目に自分という存在へ思いをはせるのは、まさに自分が自分である所以だとカエルは思いました。

*やみーペンから*
やみーペンも何歳になってもやみーペンだし、やみーペンの中には3歳児のやみーペンがいるよ~。

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update 2025/5/25
Q.Xジェンダー?の中学生です。配慮してもらうためカミングアウトしたいけど怖いです。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.Xジェンダー?の中学生です。学校では男女で扱いが違うとき、男女で分かれるときがあります。今は誰にもカミングアウトできず、過ごしにくいです。ただ、配慮してもらうためには言わないといけないです。なんで?どうして?と友達に聞かれるのも怖いです。
一人、言えそうな前担任がいます。その先生には、自分が同性が好きということを伝えて、全然いいじゃんと言ってくれました。なので、言うならその先生です。ただ、言ったあとに、違う先生や友達に伝わるのが嫌です。また、今まで友達だった人と関係が変わるのも怖いです。いや、優しい人たちだから、そんなことないかもしれません。
どうすればいいと思いますか?
あ、Xジェンダー?と?をつけた理由は、まだ自分の性別の言い方が決まってないからです。感覚的にはどっちでもない、です。もはや日本語の問題では・・・?と思い始めてますが。
(編集注:「質問入りきらなかった」という言葉が補足にあったので、補足の内容も質問として公開しました)

A.言えそうな大人がいるなら、その大人を手掛かりにするのは大いにありだと思います。いわゆる常識から少し距離のある個性について、すべての人たちが理解をしてくれたり、受け入れてくれたりするわけではないと思います。どう思われるのか怖く感じるのもとてもよくわかります。ただし、一見無理解な反応や拒否的な感触には「よくわからない」「知らない」ことが大きな理由のようにカエルは思っています。だから、わかってくれそうな人からじわじわと理解を広げていったり、もしも、一人では受け止められない反応があったときに報告したり、一緒に考える人や場を持つことは大きな意味があると思っています。
例えばXジェンダーという呼び名も一つの表現ではありますが、「?」がついているところを見ると、あなたがもっとしっくりとくる表現が見つかるかもしれません。実際には一人ひとりの性別への認識や感覚はそれぞれ異なるところが、何となく女と男の二種類に分けられていることで、苦しさを感じる人は意外とたくさんいるはずなので、こうした質問をカエルは大歓迎しちゃいます。

update 2025/5/21
Q.もう何年間も、自分の中も人生も滞っていて、全てが乖離している感覚です。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.もう何年間も、自分の中も人生も滞っていて、全てが乖離している感覚です。あっちを点けたらこっちが消える。好きなこと・やりたいことにもストレスを感じる。これはなんなんだろう…

A.なんなのかはウ・サギも今考えを巡らせているところですが、(補足に書いてあった内容も含めて)感覚を丁寧に言葉にしているのに感心しました。
なんとなく思い浮かんだことを書いていくと
・感覚を細やかに感じて言葉にできるタイプよりも、大雑把になんとなく言葉にするより行動しちゃうタイプの方が、なんか生きやすいっぽいのはある気がする…(だから、これだけ言語化できる=生きづらい証明、という感覚はあるなあ)※私見です
・それなりにしっくり生きていくためには、インプットした分とだいたい同じ量アウトプットするのがポイントだとウ・サギは感じている。質問者さんはインプットが多いわりに、アウトプットが間に合っていない印象があるので、それが「滞り」という感覚になっている…?
インプットというのは、何かの出来事や外部の刺激に対して、湧いてきた気持ち、感じたこと、その後考えたこと、というイメージです。アウトプットは色々な形がありますが、例えば極端にいえば怒りで暴れ狂っちゃう、リストカットする・・・etc、健康な方法であれば体を動かす、喋る、文章にする、絵など芸術で表現する・・・etcという感じです。それらは一人で出来るものも多いのですが、自分を理解をしてくれる相手、自分の表現を受け止めてくれるだろう相手がいると感じる中でやるのと、そうじゃない中でやるのとでは、効果が違うようにも思います。また、言葉にするタイプの場合は、時にフィードバックをもらったほうが、より自己理解、自己表現が進むこともあると思うので、その機会も十分にあるかないかで変わってくる部分もあるように感じます。
とはいえこれはあくまでウ・サギ説なので、「全然違うよ」とか「いや、ここはちょっと違う」とか思われているかもしれませんが、その「違う」を言葉にしていくと、意外と自分の中で整理できたり気づけるものがあるともウ・サギは感じてきました。よかったらまた質問をください。

update 2025/5/15
Q.愛されたいなら愛しなさいと言うが、愛されたことない人にとっては無理難題だと思う
この記事の担当 ウ・サギ

Q.愛されたいなら愛しなさいとよく言いますが、そもそも人から愛されたことがない・または間違った愛し方をされてきた人にとっては無理難題だよなぁと思います。相手を不快にさせずに人を愛すにはどうすればいいと思いますか。

A.「愛されたいなら愛しなさい」なんて、どこの誰が言った言葉なのでしょうね…。いわゆる名言、真理、みたいな言葉は、共感する人がいくら多かろうと、所詮誰か個人の偏見だとウ・サギは思っています。
だからもし「愛されたいなら愛しなさい」と言われても「あなたはそう思うんですね」とスルーしたいウ・サギですが、相手を不快にさせずに人を愛したいというあなたの気持ちは受け止めました。
どうすればいいかは・・・そもそも愛の定義も人それぞれなので難しいですが・・・一つ言えるのは、「不快になるかどうか」は相手の問題だし、相手次第ということです。そして、絶対にお互いに不快のない関係は存在しないとも思うので、きちんと快・不快を率直に伝えられる関係、尊重し合える関係をつくるのがポイントなようには思いました。具体的に何をしていけばいいかで考えると、常日頃から自分の感情を理解すること、表現することを積み重ねていく、というのになるのかな…?とウ・サギは感じました。(他にもいろいろあるとは思いますが)
ちなみにウ・サギは「愛」は「あなたがあなたらしく自由に、でも周りの人の自由も守る存在として、大きな苦痛なく生きられますように」だと思っているので、一応すべてを等しく愛しているつもりですが、そういうのはあまり周りからは愛だと思われないっぽいです。難しいですね。

update 2025/5/14
Q.気づいたらいつも少数派。皆と違う意見になりやすく、「逆張りするな」と言われがち。
この記事の担当 所長室

Q.気づいたらいつも少数派。皆と違う意見になりやすく「逆張りするな」と言われがち。意識して反抗してるのは怒られると思うけど、ただ皆と考え方が合わないだけ。「少数派も大事な意見」なんてありふれた励まし方はされたくない。

update 2025/5/4
Q.深く考えることができる強みが裏目に出てしまい辛い
この記事の担当 ウ・サギ

Q.私は自分自身や、人間関係、物事を深く考えることができる強みがあると自覚しています。しかしそれが裏目に出てしまい、辛いです。

A.ウ・サギも物事を深く考える力や習慣がたぶんある方だと思いますが、考える力の強みであると同時に弱みでもあるのが、自分の中の指標や正しさが固まってしまう、という部分なのかなと感じています。
世の中には、フィーリングで生きる人もいるし、感情を優先して動く人もいるし、それぞれに事情や個性があります。いろんな種類の正しさがあるし、正義が通らないことも多いし、見えてるものも感じているものも人の数だけあります。だから・・・何が言いたいかというと、自分の中の正しさが強く存在しすぎると、「正しくないこと」が多くて現実の受け止めがストレスフルになるよね、ということです。(質問の補足に書かれた内容も込みで想像すると、そういった状態にあるのかなと読み取っています)
ちょっと話が飛ぶのですが、この前ウ・サギは「優れたAIでも、適切な情報を、十分な量読み込ませてあげないと活躍できない」というような話を聞きました。深く考えることができる=優れたAI、と仮定すると、裏目に出てしまうのは、適切な情報を十分な量読み込むのがまだできていないからかも・・・?とちょっと思いました。もしかしたら、例えば違う国や文化の人との交流など、今の自分の概念をぶっ壊すようなデータを新しく取り込んでみると何か変化があるのかもしれません。
とはいえ、そんな理屈は一旦置いておいて、辛いものは辛いですよね…。お茶とお菓子を出して、考えるタイプあるある苦悩みたいな話を本当はしたい気分です。

update 2025/4/20
Q.子供の頃のしんどさをそのまま抱えている大人になれない人間はどこに助けを求めたらいいですか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.大人になれない、でも子供じゃない。でも子供の頃のしんどさをそのまま抱えてるどっちつかずの人間はどこで誰に助けを求めたらいいですか。大人向けの場所からも子供向けの場所からも疎まれてしまいますか。

A.人間は基本的にどっちつかずであり、そもそも大人・子どもの定義というものも曖昧なので(何かの定義は結局人間がつくったものなので、不完全で個人差があり、人の数だけ定義があると思います)、あなたはただ人間なのだと思いました。そして、他のみんなもまたただの人間だし、子どもの頃のしんどさを抱えている年齢大人は、おそらく実は一番多数派ではないか?とウ・サギは感じています。
ただ、現実としては、支援や活動は対象者をある程度限定するものがありますし、そういうことを気にしての質問かなと受け取っています。誰に助けを求めていいかはわかりませんが、子どもの頃のしんどさを抱えている大人に理解のある場所、そういった仲間がいる場所につながることが、自分を助ける力になるようには思いました。
子どもへの支援も十分とはいえないですが、子どもの頃のしんどさを抱えたままの人の支援はより乏しい現状があると感じます。生きてきた年数=年齢ではなく、自分らしく生きられていた年数=年齢とする(成長する環境が整っていなかった期間は、年齢から引き算する)のが適切なのでは?と、生きかたカエルはよく言っています。

update 2025/4/16
Q.振り返りたくない過去と、どう共存していくべきでしょうか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.戸籍上の性別に合わせて生活してきた幼少期のことを思い出すと、当時は認識できなかった辛さを感じてしまい、幼少期の記憶を消してしまいたいし、まわりの人も忘れてほしいと思ってしまいます。振り返りたくない過去と、どう共存していくべきでしょうか?

A.記憶を消してしまいたいし、周りの人も忘れてほしいと思っている時期はウ・サギもあるので、勝手ながら共感しました。
経験的には、自分らしくいられる期間が積み重なって、ちゃんと扱われたり認められるほどに(これから新しく出会う人は、素晴らしいことに、自分のこれまでを知らないのです!)、過去が心を占める割合は徐々に少なくなります。だから一般論っぽくなりますが、時間がある程度楽にしてくれるのはあるとウ・サギは思います。
あとはそのつらい経験に意味を見出すことで、なんとか折り合いをつけていくアプローチもあります。ウ・サギは、消したいほどの大変な時期がなければ、こうやって色々と考え言葉にすることはできなかったと感じています。考える力や言葉にする力なんていらないなら、ハッピーに生きてきたかったとも思いますが、どんな経験も自分の一部として役に立つこともあるんだなあ、とは思います。まあそれはそれとして、記憶はなるべく振り返りたくないので、せっせと働いて、他の人の話に耳を傾けています。
また、過去の辛さを感じるのはしんどいものですが、自分の悲しみを癒すための大切なプロセスだともウ・サギは感じています。

update 2025/4/14