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Q.「Q.いじめ傍観者も加害者と”同罪”は~」の質問者です。回答の言葉からぐるぐる考えました。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.Q.「いじめ傍観者も加害者と”同罪”」は極論だと思いますか?の質問者です。
ウ・サギさんの回答にあった、「子どものいじめについての責任は100%大人にある」という言葉について俺が思ったことがあります。
まず、俺は子供と大人でキャパやできることの差が極端にあるわけではないと俺は思います。だから、大人(教師など)ができる範囲で必死に頑張っても子供のいじめをどうにもできないケースや、他のことの負担が大きくて対応できないケースや、一人の大人が負担を押しつけられて適切な対応ができなくなるほど追い詰められてしまうケースも、現実にあると俺は想像しています。特に教師の過重労働問題もあると俺は認識しているので、大人にも限界があるのも現実だと思ってます。
しかし、そんな大人側の背景や事情は、いじめを受けた子供やいじめをしてしまった子供には関係のないことだという意見もその通りだと俺は感じるのです。
なぜなら、大人のキャパやできることが子供と大きく違わないとしても、大人の言動が子供に与える影響が絶大なことに変わりはないと思うからです。だからこそ、「子どものいじめについての責任は100%大人にある」という言葉そのものは正しいと思うのです。
しかし、いじめ問題に対して、大人が適切な対応を選べない現実そのものは、「大人の責任」で片付けていい問題ではないんゃないかと、俺は思うのです。大人であるということは、キャパが大きいことや、できることが多いことと、イコールではないと感じるし、大人にも限界がある、大人にも事情があるということも現実だからです。
しかし、だからといって大人がそれを言い訳に子供に責任転嫁するのも違うと感じます。難しいです。
少なくともいじめ問題は、簡単に「こうすればいい」で片付けられる問題ではないと感じますが、勝手ながらぐるぐると考えてしまい、質問を送ることにしました。
ウ・サギさんは、どう思いますか?

A.なるほど……色々と、考えを深めたことがよくわかりました。まず、「責任」という言葉の捉え方が質問者さんとウ・サギで少し違うかもしれないと感じたので補足しておくと、「責任」は「○○のせいである」という原因よりも、「解決する役割を果たすのは誰か」という解決の主体を指している意味合いがウ・サギは強いです。また、ここでいう大人とは常に大人たちのことであり、小さい単位で言えばそれは身近な人たちで組むチーム、そして大きい単位では社会を構成する大人全員のことを言っています。
大人の定義についても、単に年齢で考えてはいなく、子ども時代に必要なケアや学ぶ機会を保障された上で、現在誰かをサポートするだけのリソースが余っている者、という捉え方をしています。ただ、残念なことに全員がそれを保障されてはいないので、子どもと大人の混ざったような段階の人たちも、それぞれの力を無理なく持ち寄ることができたらいいな…とは思います。
「責任がある」「責任をとる」いう言葉でウ・サギが一番強く思っているのは、「問題の本質を考え、長いスパンで解決のための努力を続ける」姿勢のことかもしれません。解決のための協力者は大人子ども問わずたくさんいるほど良いし、誰でも少しずつ手伝えるし、自分のできる分については少しずつの責任を背負ってほしいとも思います。でもそのプロジェクトの責任者と言える人やチームには、それなりの力量や安定感が求められると考えているし、ここでいう力量や安定感を得るためには、絶対に一定数の人生経験が必要だとウ・サギは思っています。だから、責任を果たせないものには責任がない(求めてもいいことはない)という点で、子どもには責任がないと言い切ってしまうのかもしれません。
ただし、個人で責任を背負いすぎると、結局責任が果たせなくなることもあります。こうやって考えてみると、責任というものはとても難しいですね……。考える機会をありがとうございます。

回答:ウ・サギ

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update 2026/3/4
Q.お金を使いすぎてしまい、収支マイナスで給料日に病むの繰り返しです泣
この記事の担当 所長室

Q.お金使いすぎてしまいます泣
お金使う時が一番ストレス解消で幸せで、収支マイナスで給料日に病むの繰り返しです泣
この衝動どうしたらいいでしょう

A.キャッシュレス決済が支流になり、使い過ぎる感は多くの人が体感している気もするよ。だって、手元に現金が無くても買えてしまうから、我慢しなくて良いような感覚も持ちやすい。世の中全体が便利になり、個人の我慢への耐久性はどんどん減っているはず。
それに輪をかけて、SNSで繰り返し入ってくる情報で、すでに誰のための買い物かすらわからなくなってくる。ゴロン猫はホコリのかかったステッパーが部屋の片隅に転がっているよ。言い換えとして正しいかはわからないけど、誰もが衝動しやすくなるような仕掛け(トラップ)だらけ。そんな風に世の中を斜めにみたり下から見たりしてみると、自分の「買いたい(お金を使いたい)」にフォーカスが当たり過ぎず、ちょっとだけ熱が冷めたりしそう。

回答:しきぶとんゴロン猫

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update 2026/3/4
Q.自分の容姿や、発する匂いとか音が常に気になって辛い
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自分の容姿や、発する匂いとか音が常に気になって辛いです。外では人目が怖くて、歩き方も息の仕方もわからなくなります。人と目合わせることもできません。どうしましょう。

A.それはしんどそうです。自分はいつもついて離れない存在ですし、生きているだけで消耗してしまうのではないかと想像しました。そこまで自分を気にしてしまう要因は何なのか、逆に何があれば気にならなくなるのか……考えてみたいところです。
ウ・サギは人目があまり気にならないし、容姿にいたっては全く気にならないタイプなのですが、どうしてだろうと最近分析してみたら、自然の中で過ごすことが多かったのが一つの要因かもしれないと気づきました。なぜなら、海や森や動物は、ウ・サギの容姿も匂いも音も気にしないからです。人と過ごす場合も、キャンプは夜だと人の顔なんて見えないし、いいだけお腹が空いてから食べるカレーは最高に美味しかったり、蚊に刺されて不快だったり、綺麗な景色に感動したり・・・とにかく五感が忙しくて、自意識の入る隙間がとても少ないと感じます。それこそ、息がしやすいような感覚があります。
あ、つい語りすぎてしまいました・・・。話を戻すと、今は五感への刺激が乏しいことで、SNSやネットで流れてくる偏った価値観、周りの人の目や評価などの、細かい刺激の方をキャッチすることが多くなったのかもしれないとウ・サギは考えています。
そのあたりはもともとの感受性が強いほど、生育環境で周りにアンテナを張る必要があったほど、怖いの源になる情報をたくさん拾ってしまって、苦しくなってしまいそうだとも思います。人目を忘れちゃうほどの素敵な何かに出会えたらいいのでしょうかね……とにかく、社会や環境との関連性が高そうな現象だとはとても感じました。

回答:ウ・サギ

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update 2026/3/4
Q.みんなの言ってることの意味はわかるけど共感できない。何がわからないのかももう分からない。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.みんなの言ってることがわからない。
言葉の意味はわかるけど、共感できない。
何がわからないのかももう分からない。

A.なるほど……補足からはとても大変そうな様子が伝わってきましたが、「わからない」はそれもそれで一つの自然な感覚だとウ・サギは思いました。むしろ厳密に考えるなら、自分以外の人のことがわかるわけはなく(何なら自分のことだってよくわからない気もします)、なんとなく理解できた気がするとか自分と近いと思いました!とか、そういう雰囲気やノリの次元で「わかる」と言って、お互いを否定しないように気をつけて生きているだけな気もしてきます。
ただ、前はわかるときが多かったのに今はわからないときが多いとあったので、その変化については何か意味や理由がありそうだとは感じました。たとえばウ・サギはストレスが溜まると自分の感性がどんどん鋭敏になっていき、誰かをわかったり、自分をわかってもらおうとすることが困難になる傾向があります。
でもとにかく、わからないのは苦しいことだとしても、わからないと思うこと自体は全然変なことだとも悪いとも思わないウ・サギです。むしろ「わからない」に不寛容な社会の方が、ちょっと同調が行き過ぎていて危ないと感じてしまいます。

回答:ウ・サギ

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update 2026/3/1
Q.「働かざるもの食うべからず」は人権侵害だと感じます。
この記事の担当 生きかたカエル

Q.「働かざるもの食うべからず」は人権侵害だと感じます。
現実食べられずに苦しんでいる人がいることは解決すべき問題だと思います。
その問題を「社会は厳しいんだ」「嫌なら努力しろ」で正当化するのも、人権侵害だと感じます。
どう思いますか?

A.これは「働く」をどうとらえるかによってかなり意味が違ってくるとカエルは思います。働くを本来の意味(自分が自然に備えている力や存在を活用して、自分のできる範囲で誰かの存在や自由の拡大に貢献すること)でとらえるのと、とても窮屈で偏った意味(労働市場に参加して、お金を稼ぐ)でとらえるのでは全然違うと思うのです。
後者の意味でとらえるのであれば、「働かざるもの食うべからず」はおっしゃる通り人権侵害だと思います。でも、前者の意味でとらえると、お金はすごく稼いでいるかもしれないけれど誰かの存在を危うくして、自由を狭めているような「働く」をしている人がたくさんいる構造的な問題があるので、そういう人に対して「食うべからず!」と叫べるのならちょっと爽快だとカエルは思ってしまいます。ただ、一般的に言われるのは後者に近いので、労働=お金を稼ぐことという矮小化が問題であるし、このことわざはその矮小化を助長してしまう恐れがあるとカエルは思いました。ただ、こうして「働くとは何か?」という本質を問い直す機会をくれるので、それはそれで意味があると思います。

回答:生きかたカエル

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update 2026/3/1
Q.男性差別についてどう思いますか?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.男性差別についてどう思いますか?

A.男性差別は、ウ・サギが最近関心をもっているテーマの一つです。根本としてはもちろんすべての性差別に反対していますが、男性の受けている差別については、最近本を買ったり、大学の研究者と話をする機会もありました。何が男性差別とされているかの話は省きますが、大学の研究者と話す中でウ・サギにとって大きな気づきだったのは、女性も男性もどんな性別への差別も「家父長制」からの抑圧という構造で考えるのがいいのかもしれないという視点でした。(このあたりは色々な考え方があるので、あくまでウ・サギの主観の話として理解してください)
「家父長制」というのは、ネットで調べると「一家の長である年長男性(家長)が、家族の財産や人間関係に対して絶対的な支配権・指揮権を持つ社会システムや制度。ほとんどの現代社会は、実際には家父長制的である」とあります。これは、もう少しウ・サギなりにかみ砕くと「男性は一家を背負ってリーダーとなりお金を稼ぎ、女性は家庭を守り、子どもは家族の言うことを聞く。男性は稼いで一家を支えているから偉いのです」というものだと思っています。もちろん今の社会には多様な生き方がありますし、家庭の形もそれぞれですが、家父長制のイメージや価値観は一つのスタンダードや正解として、私たちの中に多かれ少なかれ根づいているようにウ・サギは感じています。
家父長制の上下関係においては、男>女なのは間違いないわけですが、一人ひとりを見ていくと、「リーダーになれない(稼ぎが大きくない・パートナーがいない)男性」「パートナーがいない女性」「リーダーになりたい女性」「すべての子ども」が、劣っている存在や間違った存在、または身分が下の存在とされてしまいます。家父長制で横暴をふるった男性リーダーに傷つけられた女性はどうしても男性全体への怒りを抱きますし、横暴な男性リーダーになる可能性のある男性(人は価値観を取り込んでしまうものなので、男性の多くはそれを目指す心はもってしまっていると感じます)へも優しい気持ちにはなりづらいものだと思います。でもリーダーにならない男性は、劣った存在という定義にしばられ、サポートする(逆に言えばリーダーに守られる)身分でも認められる女性を羨ましく思うのかもしれません。自立した女性は一つの生き方になってきていますが、男性の生き方はリーダー以外のモデルがまだあまりないようにも感じます。
だから、男性差別の話からはちょっと逸れてしまったかもしれませんが、男女で分断を起こさずに全ての性差別とみんなで一緒に闘いたいし、闘うためにはどうすればいいのかを、ウ・サギは考えていきたいと思っています。

回答:ウ・サギ

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update 2026/2/27
Q.自殺ってなんでしたらだめなんですか。
この記事の担当 ウ・サギ

Q.自殺ってなんでしたらだめなんですか。自殺した人の話がニュースで出た時に相談窓口が出るから死んでほしくないのかなと思いました。でも僕はどんな未来を選択してもそれでいいと思います。生きててやっぱり死んでおけばよかったと思うこともあります。

A.世の中の人が何をどう思って「自殺はだめ」と言っているかはわからないですが(それぞれに理由も違うだろうと思います)、ウ・サギの考えとしては、自死は「社会に追い詰められたがゆえの死」、つまり「社会が個人を殺した」殺人事件だと捉えています。だから、殺人事件が起こることを肯定しないのと同じ意味合いで、自死が起こることを肯定はできない、というのが世界平和を願うウ・サギの立場となります。自死は「この苦しい世界で生きるよりはマシ」という消去法の選択だとウ・サギは思っていますし、そんな究極の二択しかない中で選ぶしかなかったものは、自由な選択だとは言えないと感じています。
もしも、誰もが安心・安全に、衣食住が保障されていて、感じることや考えることが尊重される中生きているなら、自ら死を選ぶことを選択と言うこともできなくはないかもしれません。でも今の社会で起こっている自殺は、この社会が個人を追い詰めている要素が圧倒的に多いとウ・サギは考えています。
ただ、だからこそ、相談窓口が解決策のように見なされる風潮には、ウ・サギは違和感を抱いています。私たちの社会がとある個人を追い詰めた殺人事件だとしたら、まず一番に注目して変わるべきは、この社会構造であり、そこまで追いつめられない側にいる私たちの生き方や在り方であるからです。せめて「相談してください」ではなく、「相談もできないような心理状態にしてしまってごめんなさい」「相談してもすぐにはどうにもならないような問題を抱えさせてしまってごめんなさい」と頭を下げ、「そんな現状を変えるために頑張るので、もう少しだけ待ってもらえませんか」「何が問題なのかの本質を知りたいので、話をしませんか」とお願いするのが筋だとウ・サギは思っています。個人に相談を促すことで自死の問題を解決しようとするなら、それは自死を個人の問題だと扱っているとみなされても仕方ないと思っていますし、そのときに「個人の問題としてあなたたちが自死を捉えるのなら、自ら死を選ぶことも個人の自由じゃないですか?」と感じてしまうのは自然な現象だと思います。
だから、自死を自由だとは思えない立場のウ・サギですが、質問者さんの言っていることやモヤっとしたものはある程度わかっているつもりだし、筋も通っていると感じているところです。

回答:ウ・サギ

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update 2026/2/27
Q.進路を調べろというけど、そこで生きていけるかの情報は載ってないのに、何を見ろと言うのか
この記事の担当 ウ・サギ

Q.進路を調べろっていうけど、そこで生きてけるかどうかっていう情報はどこにも載っていないのに、何を見ろって言うんだよーと心が叫んでいます。生きていけるかどうかは、何を見て、どうやって判断材料を用意して、判断すればいいのでしょうか?

A.とてもまっとうな叫びだとウ・サギは思いました。生きづLABOに寄せられる声を見ると、進路を重く見る大人がけっこう生息しているようで(人生を左右する大事な選択、きちんと考えて決めなさいといった雰囲気なのでしょうかね…)、いやいやそんなに世界は単純じゃないですよ……?といつも疑問を抱いているウ・サギです。進路は全然関係なかったね、という職業や生き方にたどり着いている民がウ・サギの周りには多いのですが、そうじゃない世界も多いのでしょうか。
そこで生きていけるかどうかについては、質問者さんの言う通り、どこにも情報は載っていません。大事なポイントは、そこで生きていくのは「自分」という点だとウ・サギは思っています。どんなに高学歴になって大企業に入っても、そこが自分に合わなければ人生は絶望にさえ感じるかもしれませんし、合わないまま無理をしたら、体や心を壊してしまうかもしれません。つまりポイントは、自分の合う・合わないに気づく感性と、自分を守る(心地よく生きる)ための選択をする力や人とのつながりを育てていくことだとウ・サギは考えています。心が叫んでいる質問者さんは、すでに感性はとても働いている状態にありそうですが、それがゆえに感性よりも常識優先になってしまった周りの大人と相性が合わなくて、戸惑いを抱いている今なのだろうかと想像しています。
学校で言われる進路については、極論行ってみないとわからないですし、さして調べずにフィーリングで選んだっていいとウ・サギは思っています。最近は学校のクチコミみたいなサイトもあるはずなので、そこで校風や雰囲気を調べるのは、一つの材料になるかもしれません。もし就職だとしたら、少しでも興味を持てそうなところか、自分にとって楽そうかとか、そういう軽い理由で全然構わないと思います。ぶっちゃけ、そこに行ってみて、合う人が一人でもいるかが最も大きい要素になるとウ・サギは感じています。

回答:ウ・サギ

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update 2026/2/27
Q.正論や綺麗事につらさや憤りを感じるメカニズムはどのようなものだと思う?
この記事の担当 ウ・サギ

Q.正論や綺麗事を聞いたり見たりした時に、
つらさを感じたりモヤモヤしたり憤りを感じたりするメカニズムはどのようなものだと思いますか?
個人的には、反論の難しさと、こちらの現実を無視してくることが理由だと感じますが、
どう思いますか?

A.これは、正論や綺麗事というものの定義(自分の判定基準)について、まずは深めてみるのがポイントになるかもしれないと思いました。正論や綺麗事といってもその定義は曖昧だと思いますが、ウ・サギは正論や綺麗事は「お前が言うな」みたいな、立場の違いや関係性に一番の引っかかりがありそうに思っています。
つまり正論や綺麗事の本質は「論」ではなく、論を言っている「人」の方にあるのではないかと思うのです。たとえば「自分を変えられるのは自分だけ」という言葉は、言われるとダメージを受ける類の正論だとウ・サギは感じますが、ウ・サギのことをずっとサポートしてくれている相手が、変われない事情や気持ちも全部受け止めている上であれば、時と場合によって「自分を変えられるのは自分だけ」が残酷な正論じゃなく心からの励ましになることもありそうだと思います。
あと他のポイントとしては、実は自分の中でも思っていたり囚われてしまっている論ほど、言われたときにつらいというのはあると思います。だから湧き上がってくる感情が大きいなら、その正論や綺麗事を言ってくる相手との関係性や存在自体へのモヤモヤがが大きいか、その正論がすでに内在化されている自分を苦しめている価値観の一つなのか……何はともあれ、自分が自分として生きるための闘いが質問者さんの中に起こっているのだろうとウ・サギは思いました。

回答:ウ・サギ

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update 2026/2/22
Q.「子供生むなら子供が自死しても文句言えない」をどう思う?の質問回答動画を見て色々思いました
この記事の担当 ウ・サギ

Q.Q.「子供生むなら子供が自死しても文句言えない」をどう思う?を見て、
親だけに子育てを全部押し付けない仕組みは必要だと思いました。
しかし一方で、俺自身は子育ての手伝いは、まともにできなさそうだし、そもそもやりたいと思えないんです。
俺は多分子供の言動にイライラしたら子供に感情をぶつけてしまうと思います。
いくら子供の言った言葉でも言われてショックなこと言われたら俺は、とても平気じゃいられないと思います。
例え手伝う役割であっても子供を世話したいと思えない。
親だけに子育てを全部押し付けず社会で育てる仕組みは必要だと俺は思います。
でも、他ならない社会の一部である俺自身は子供を育てたいと思えない。
そもそも大人とか子供とか関係なく人付き合いを積極的にしたいと今の俺は思えません。
矛盾で苦しいです。
どう思いますか?

A.子育てを支えるものは子どもとの直接的な関わりだけではないので、質問者さんができないしやりたくないと感じるなら、子育ての手伝いをする必要はまったくないとウ・サギは思います。大切なのは、助けてほしいことを助けてほしいと言えることと、無理なく手伝える人がそれを手伝うことのマッチングであり、その循環によって、誰かが大きな苦痛や不利を伴うことなく世界が回っていくことをウ・サギは望んでいます。
むしろそのマッチングのためには、自分の状態や適性(助けてほしいことがあるか、あるならそれは何か、逆に、自分に出来そうなことはあるか)を知っておくのは一番大切だと思うので、自分を知ることは、誰かに押し付けない仕組みをつくるための努力や貢献と言えるとさえ感じます。また、助ける・助けられるのどちらが偉いとかではなく、状況や得意不得意を理解して、補い合うことを大切にしたいウ・サギです。

回答:ウ・サギ

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update 2026/2/22